ありふれた晴れた夏の夜

 
 
今日は既に瓶ビール2本、酎ハイ3,4杯、焼き鳥屋で、それからJAZZバーでマティーニ2杯、マンハッタン2杯、カールスバーグ2本飲んだから、もうアルコールは飲まなくていい。
高校の友人と、マティーニは奢ってもらったが、そのままあの時のあの頃にタイムスリップしてあの子とあの子がいたら、もしかしたら、あの頃とは全然違う行動をとっているかもしれない。
つまり、もっと話をしたり、デートにさそったり、たぶん、墨田川とか荒川の河川敷とか、代々木公園とか。
だから、今日はもうジンは飲まずに、ルシオンさえ飲めばバタンキューなのだが、それさえも飲まない。
でも、やっぱり飲む。
つまり、このブログは公開されているわけで、
こんなたわ言を読んでいる人も中にはいるわけで、
そういう人には悪いが、
ぼくは、自分が支離滅裂になるのが個人的には好きで、
その状態で、左脳的言語を綴るっていう感覚が趣味だから。
今、冷たい水と一緒に飲んで、グレゴリアンチャンとを聴いている。
 
そのうちに、カーソルが飛んで、この文章もパーになるのだろうが、
(なぜか”Y”のキーを打つと、カーソルがどこかに飛んで行ってしまう。)
言葉は、最近、無意味なほどいいらしい。
つまりそこに”意味”とか”思想”とか“プロット”とかがないほうがいいらしいから、
そのせいでもないのだが、
思考はすべて無意味だから、
それをそのまま綴るっていうのもアートかもしれない。
 
つまりぼくは脱近代化を実践している最先端である。
 
それは、インディアンなのだ。
 
言語はそのように非幾何学的象徴となって、
未来を映し出す。
そこに映っているのは問題の核心。
 
もし、夜見る夢が現実だったら、ぼくは現実を夢見ることを呪うだろう。
 
トートロジーとは抽象を具体で暗喩する想像の飛躍を笑う。
 
だから、社会派は詩を理解できない。

HenYouさんのこと言ってるのだが
ぼくは、FUCK YOUと書いたから。
 
それがありきたりの”文章”としか読まれないなら、
その”意味”は理解されない/かった。
 
絵なら見えるのに、
言葉は、決まり切っていて、想像できない。
 
だから”それ”をことばで表現しても、
結局、だめだってこと。
 
だから、書いている。

つまり、FUCKと書いても
そこには崇高なバラモン思想が背景にあることなど
彼には分からないから、その文は、読み飛ばされたということ。
 
音楽ならわかる。
あらゆる音のニュアンスが演奏のたびごとに違う。
 
ところが、キーボードで打ち込む言語は、いつも同じ。
 
そんな言語を打ち込むのは、思考をただ垂れ流しているのが、時には快感に変わるから。
 
ネットにはフォントが溢れている。
 
おかしなもんで活字回帰だ。
 
それなのに面白い文章がないのはなぜか?
 
それは”ニュアンス”そのものを表現した文章がないから。
 
絵画ならマチエールというのがあって、ぼくはそれを見ている。
 
たぶん文章にも”文体”というのがあって、それがいいという人もいる。
それだけがいいと。
 
ところが、そんな文でも何かを描写している。
 
抽象絵画は文章の世界には存在しない。

抽象的概念はいくらでもあるのに、抽象そのものを論じることは言葉上ではトートロジーになってしまうから、
”無意味”だ。
 
たぶん、”イデア”というものが実際にあるのだろう。
それは、”価値あること”あるいは”意味あること”という意味だ。
 
ところが、そうした意味あるように見えるすべての意味が無意味だとしたら、
言葉はただの抽象であり、虚像であり、実体のないものであり、
 
 
今、ベートーヴェンの月光を聴いている。
そのあらゆる音のニュアンスが理解できる。
短調の悲劇的調べ。
それは、夜、青白い月光、無言で流れる白い雲、透明な空気。
白光は銀色がかっていて、なつかしくも、光っている、自我もないのに。
 
だいぶ眠くなってきた。
 
 
もう、言葉も浮かばない。
こんなにセコハンの言葉、
言葉はすべて中古品であると言ったのクリシュナ・ムルティだったけど、
そんな中古の言葉を巧く並び換えれば、きっと独創的芸術になり得るのかもしれない。
 
いや、そんなのは無理だし、そんなことを試そうともしたくない。
 
ただ、気を失って眠れない原因がこの”言葉”だから、
それを汚物のように垂れ流していけば、何かにぶち当たるかもしれないと思って、
つまり、記憶や、想像によらない、新しい喚起。
あそこに置き忘れてきた記憶。
へばりついたまま変形してしまった記憶。
私という個人にまつわる様々な記憶の集積。
それらが総てガラクタ同然の抽象だとしたら、
つまり、あしたも、あのひとも、すべて
ただ、生命の持続するだけの装置だったら。
 
かつて一度、そんなこと耳にしたような気がする。
トリックに気づけということ。
そのトリックは公然と公開されているのに、
まるで認識できないように、
脳はそこを通り過ぎるようにプログラミングされてる。
それは、自己によって、自己自身に見えないおきてを掛けて、競おうとしている。
 
単語を並べるとき、文法は決まっているが、それとは別の文法がある。
それをおぼろげに思い出した。
 
ユニヴァーサルな主語と述語の並びの中に、決めつけられた真に自由になれないように仕組まれた陰謀を嗅ぎ取る。
そのニュアンスに気づかないように、