三文政治のネタ


 

どこかのホームページに僕のブログの記事にリンクが張ってあった。

どうも、最近アクセスが多いと思って調べたらわかった。

政治的なホームページだ。

僕も政治的なことが嫌いではない。

かなりアブナイ記事が好きだし陰謀論も好きだ。

ところが、僕の記事が引用されたのは、固有名詞をブログに書いているからだ。

つまり団体なり個人なりを僕は一個人として私的な日記のつもりで書いている。

でも、それを政治的に引用して、恣意的に利用しようとする人達も大勢いるのだ。

体験しない人たち。

ただ、引用し、論じ、持論の正統性を主張する人達。

ネット上にはそうした頭でっかちの”独断的評論家”が大勢いて

それぞれに好き勝手な社会批評を書き連ねている。

それらにいちいち反論してもいられないし、

逆に、恐れて何も書かないわけにもいかない。

なぜなら私の体験は私の体験であり、

それを表現する自由は誰にも侵害されないから。

ところがそれを政治的に引用する人達は、

まったく何もわかっていない。

僕がどれほど政治的でないか、

というより

政治なんて、右があれば左があるし

あーいえばこーゆう人が必ずでてくる言語世界の範疇だ。

そんな言葉の論争など無意味だ。

でも、誰も異を唱えられない”真理”というものが存在するかもしれない。

でも、そうした”言葉”は、宗教の範疇になってしまう。

かつてのイエスムハンマドブッダに誰も反論できなかったように

反論できない”言葉”というものがある。

それは、”理想”かもしれない。

ただ、その”理想”は未だに実現していない。

だが、実現していないからと言って、それがあり得ない夢だと片付けることはできない。

世界平和でさえ、反論する者がでてくるし、

それを私的な利益に利用しようとする悪人もいるのは確かだ。

”平等”というだけで”アカ”呼ばわりする右翼もいる。

自由も平等も博愛も理想が実現されなければ、それはただのスローガンであり

そのスローガンが派閥の結束に利用されれば、悪を推進する力にもなるだろう。

結局、政治を論じ、もっともなことを言っている輩は、

なんらかの言動以外の”行動”を示すべきだと思うのだが、

彼らのやっているのは、ただ、”私的言語による自己正当性の主張”のみなのだ。

そして、その思想に共鳴しないものを抹殺しようとする権力を暴力によって見せつけようとする

結局、”力”の誇示なのだ。

力によって言論すらも脅えさせようとする汚い輩には、

それより強い力を見せつければ、尻尾を巻いて逃げる犬だから

結局、動物の次元で論じればいいだけの話になってしまう。

そんな”政治”に未来があるわけはない。

だから、ぼくは政治的じゃないのを、覚えていてもらいたい。