レポート「フーコー 『言葉と物』 第一章 侍女たち について」

2005年に提出したレポートです。
htmlで編集してみました。
(フー。表には苦労しました・・・)
少しは見易くなったでしょうか?
 
 
 

フーコー『言葉と物』 第一章 侍女たち について



 表現芸術系専修 3年 紫源二(仮名)



 フーコーは『言葉と物』の冒頭、第一章でベラスケスの傑作「侍女たち」を取り上げ、論じている。
 17世紀、フィリーペⅣ世の庇護の下、宮廷画家ベラスケスは、数多くの傑作を遺した。中でもこの「侍女たち」は、絵画史上の最高傑作とまで言われている。いったいこの絵のどこに、その後何世紀にも渡って人々を魅了し続ける秘密が隠されているのだろうか。そして、何故この絵画を、フーコーは『言葉と物』の冒頭で取り上げたのだろうか。
 私は長年この絵に魅力を感じ、何度も何度も繰り返し見てきたが、フーコーのテクストを読んで初めて、今まで見えなかったものが見えてくるようになった。漠然とただ絵の表面を眺めていただけでは見えなかったものが、フーコーの解説を読むことによって見えてくるようになった。このこと自体、フーコーの言う“表象”ということなのかもしれない。
 表象するには、知識、歴史、直観、類推、分析などの知的作業が関わってくる。それらは、光学的な視覚情報には還元され得ない知的な情報である。したがって、この絵画をどのように表象したかは、言語によって語らなければならないが、言語は光速の瞬時性に比べると、継起的であり、逐次的である。しかし、この継起的言語が、瞬間的表象作用を可能にしているのだとしたら、言語で書かれたものを読まなければ、絵画をどのように“見た”のかも知ることはできない。
 この“見る”ことを語った貴重なテクストによって、フーコー自身の“表象”を、私も類推でき、それによって、私がこの絵を見たときに“見えるもの”も以前と比べて別なものに変化してしまったのだ。だとするなら、フーコーがこの絵を見たとき“彼自身は実際に何を表象したのか”を、改めて、フーコーのテクストを読み返しながら検証し、彼の表象にどれだけ近づけたのか、また、私の見方とどこが違っていたのか、あるいは、依然として違っているところは何処か、分析してみなければならない。
 この絵画の中に隠された謎を、どのように見えるものとするか、そして、どのように見たのかということは、主観的な命題であって、客観的検証は不可能であろう。しかし、言語は、その主観的命題の真の姿を類推することを可能にする唯一の可能性であると信じなければ、デカルトのコギト主義から解放されることは永遠に不可能になってしまうだろう。
 「それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知のたんなる折り目にすぎず、知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消えさるもとだと考えることは、何とふかい慰めであり力づけであろうか。」と、フーコーは『言葉と物』の序で語っている。この謎めいた言葉の意味を「侍女たち」の分析の中にも見いだすことができるのか。そのことも念頭において、フーコーの第一章を読んでみたい。
 
 

1.第一章「侍女たち」の主観的要約

 以下、「 」内は、『言葉と物』新潮社 渡辺一民佐々木明訳 から、そのまま引用。
 

①不可視の三角形について

「芸術家の眼、モデルのいる不可視の場所、裏返しにされた画布の上にきっと描写されているにちがいない形象」の三角形

 フーコーは、絵の中に描かれた画家と、それを見る鑑賞者の関係を分析する。
 その際、重要になるのは、絵の中に描かれた、裏返った画布の存在である。
 この“絵の中の絵”に描かれたものを見ることができないことから、画家が視線を向けて見ているものが本当は何なのか、鑑賞者は知ることができない。
 「画家はその絵から心もちさがったところにいて、鑑賞者の眼にちょうどいま見えるようになったばかりなのだ。」そして、「画家は、鑑賞者を見つめている。」
 絵の中の画家が画布の中に表象しているものは、鑑賞者の位置にあるモチーフのはずである。そして、そこには、「押しかけてくる鑑賞者と同じ数のモデル」がいる。しかし「画家が眼をわれわれのほうにむけているのは、われわれが絵のモチーフの場所にいるからにほかならない。」だけであって、裏返しの画布の表面に描写しているものは何なのか鑑賞者には見えない。
 われわれは、絵の中の絵の裏側しか見えないから、画家が描いているものを見ることはできない。しかし、画家自身も、「両立しがたい二つの可視性の境界に君臨しているのである。」
 すなわち、“私”には見えない絵の中の絵の裏側に描かれた世界と、“私”に見えるが、“絵の中の画家”には見えない、この絵そのものの画面の中。この二つの画面は両立し得ない。(主観と客観は両立しえないとするなら当然か?)
 それでは、絵の中の絵の裏側(表面)に描かれた絵と、この絵そのものは、同一なのだろうか。つまり、絵の中の画家は、絵の中で、この絵そのものを描いているのだろうか?
それとも、別のモチーフを描いているのだろうか。 ・・・[疑問1]
 

②絵の中央に描かれた“鏡”の存在

 1.「鏡のなかに映しだされているもの、それこそ、画面のあらゆる人物が視線をまっすぐに伸ばし凝視しているものにほかならない。」

 2.「鏡こそ、絵のなかに表象された空間とその表象としての本性とを同時にゆさぶる、可視性の換位を保障するものにほかならぬ。それは、絵の一部でありながら、二重の意味でとうぜん不可視であるものを、画面の中央に見せてくれるのだ。」

 「二重の意味でとうぜん不可視であるもの」とは、①絵の外側にあるもの。②「画家が見つめている諸形象」すなわち絵のなかの登場人物、が見つめているもの。の二つである。
 簡単に言ってしまえば、絵のなかの登場人物である王女マルガリータ妃をはじめ、絵の中
の画家を含めて、この絵に描かれている者が共通に視線を向けているものこそが、この鏡に映ったものであり、しかも、それは、この絵の画面の手前に存在しているものと同一だということである。
 そして、第一章の後半、“二”の中で、絵の中の登場人物が“名指される”。固有名詞で
登場人物が名指された瞬間、鏡に映っている人物は、スペイン国王フェリペ四世と王妃のマリアーナであると即時に表象され、タブローに収まる。
 つまり、[疑問1]の答えは、否である。
 “絵の中に描かれている画家”は、この絵そのものを描いているのではない。この絵とはまったく違ったモチーフ、すなわち、王と王妃の肖像画を描いていたのだ。
 当然、“絵の中の画家”の視線の延長線上に“たった今存在する鑑賞者”を描いているわけでもない。
 ここで初めて鑑賞者は、“絵の中に描かれた裏返しになった絵の表面に描かれたものを固有名詞によって特定することができる。“絵の中の画家”は、あの大きな画布に、当時のス
ペイン国王とその王妃を描いているのだと。そのとき瞬時に、画家の表象の中に鑑賞者が存在しないことが明らかになる。
 王という権威がこの絵の主題となったとき、“固有名詞”によって、“鑑賞者”すなわち、この絵を表象している主観そのものが非存在となる。
(このことをフーコーは、古典主義時代の知のエピステーメのメタファーとして語っているのかもしれない。)
 しかし、フーコーは「譬えや隠喩や比較によって、語りつつあることを見させようとしても無駄なのである。」と語っている。それは、「可視的なもの」と「言葉」が「たがいに他に還元しえぬものであるということだ。」。よって、固有名詞で、見たものを名指すことは、フーコーにとっては「たわむれのなかでのひとつの奇計」にすぎないのである。
 その後、フーコーは、「両者(話す空間と見る空間)の不両立性にさからうのではなく、そこから出発して語ろうと欲するならば、そのときは固有名詞を抹殺し、無限の努力を重ねていかなければなるまい。」と自ら語っているように、この絵画を“言葉によって語る”ことを試みている。(言葉は継起的であるが故に、私には、図示すればなお一層分かりやすく、一瞬で認識されるであろうと思われる事柄を、フーコーは敢えて“言葉”のみを使って、この傑作と比肩し得るほど見事に、巧みにこの絵画を語り尽くしている。)
 この絵画の中では、幾本もの線が交錯し合い、互いに影響し合っている。登場人物の視線、絵画の構図、平面に描かれた空間のパースペクティブ、鑑賞者の視線。これら眼には見えない幾本もの線が互いに絡み合い、複雑かつ巧みに構成されているが故に、鑑賞者は必然的にこの絵画の中で、様々な構造を読み解きながら、視線を永遠に回帰させることができるのだ。それが、この傑作の魅力なのだろう。
 しかし、鑑賞者の視線が自然に移動し循環するような構図で描かれることは、絵画一般にとって重要なのは今更言うまでもないことである。この「侍女たち」が他の絵画と比べて極めてユニークなのは、コンポジションの中心が欠けている点であると、フーコーは指摘する。そして、「おそらくこのベラスケスの絵のなかには、古典主義時代における表象関係の表象のようなもの、そしてそうした表象のひらく空間の定義があると言えるだろう。」とフーコーは語る。
 しかし、古典主義時代、すなわち、名付け得た名詞のタブロー空間において、「自己をこの絵のなかで表象しようと企てた」瞬間、「いたるところから厳然としてひとつの空白が指し示される。その空白こそ、表象を基礎づけるものの消滅――表象がそれに類似する者と、その眼には表象が類似物にすぎぬところの者――それはおなじひとつのものである――が省かれているのだ。そして自分を鎖でつないでいたあの関係からついに自由となって、表象は純粋な表象関係として示されることができるわけである。」・・・[最後]
  
 

2.この章の感想と疑問

 
 16世紀の知のエピステーメの中心は、“神”であり、知るということは、《権威》を信じ、権威によって配せられた言語を拾い上げることであった。
 しかし、ベラスケスは、絵の中で、この権威の中心(ここでは“王と王妃”)を鏡の中に閉じ込め、相対化してしまった。
 17、18世紀の古典主義時代になって、人間が記号と物の関係を分析し、分類し、記号と物の関係をポジティブなタブローとして確立させた。一見、そこでは、物事の関係は整然と整理され、タブローの外側に不可知なものは存在しないように見える。しかし、人間自身は、そのタブロー自体には含まれていなかった。
 ベラスケスは、画家自身をタブローの中に組み入れることによって、描かれたモデルの従属関係のみならず、鑑賞者そのものまで画面の中に引き入れた。その結果、17世紀の王室という時間的制約に固定されたタブローは意味を失い、画家の表象である絵画は、永続する時間にまで、つまり、現代にまで意味のあるものとなった。
 しかし、人間がタブロー自体の中にはいることによって、それを見る鑑賞者自身は、逆に奇妙な立場に立たされることになった。裏返った画布の表面を誰も見ることができないように、鏡に正対して自分を映す以外、自分自身を客観的に見ることはできない。しかし、人間の主観を、あたかも“科学的”方法論で客観的に論じることができるとする“心理学”の誕生によって、“狂気”が定義され、われわれはその鏡に自分を映して自分を見るようになった。しかし、そこには、本当の自分自身は映っていない。
 この絵の中に存在する正面に向いた鏡、本来その表面には(パースペクティブ上)、鑑賞者自身が映っていなければならないはずだった。しかし、それは本物の鏡ではない。絵に描かれた鏡であって、物理的光を実際に反射させているわけではない。しかし、“客観的”といわれる近代科学的方法論の中に投影された人間自身は、描かれた蓋然的人間、誰かの意図によって定義された人間、誰かの主観によって表象された人間であるというアプリオリを忘れ、人間そのものが映っていると錯覚したまま、自己認識しているだけなのかもしれないのだ。あたかも、鏡のように自分を映している知の蓋然性は、本当は誰かによって描かれ、何らかの意図によって設計されたバーチャルな鏡であるのに、その姿に囚われた表象は、「その眼には表象が類似物にすぎぬところの者」であることを認識できず、鏡像を自己であると認識して、「自分を鎖でつないでいる」囚人のように。だから、「人間は最近の発明にかかわるものであり、−略− 知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消えさるもとだと考えることは、何とふかい慰めであり力づけであろうか。」と語ったフーコーは、そこに映っている自分自身の姿は“類似物”ではなく、「早晩消えさるもの」いや「空白」だと考えることによって、この絵画に無限の表象関係の表象を与えたかったのではないかと思われる。
 つまり、眼に見えない知のエピステーメを考古学的に発掘する以外、絵画の表面に描かれた、なんら隠匿性のない記号ですらも、表象することができない、否、強制的に表象させられることから開放されることができないと、フーコーは言いたかったのかもしれない。

 しかし、ひとつ疑問が残る。それは、私がフーコーのテクストをまだ完全には読みこなしていないことから生じる疑問かもしれない。しかし、類似物から表象が開放されたのは、タブローの中に自己自身を投影させたときからではなかったか。だとするなら、ベラスケスのこの傑作は、近代のエピステーメの象徴であり、フーコーの忌み嫌う“人間”自身は、そのとき“発明”され、存在するようになったのではないか。つまり、タブローが崩壊し、[最後]に述べられているように、「自分を鎖でつないでいたあの関係からついに自由となって、表象は純粋な表象関係として示されることができる」ためには、人間自身が主体的に命題を定義する必要があったのではないか。しかし、近代において、人間は、発明された“人間”自身によって逆に疎外され、「鎖につながれて」しまった。
 だとするなら、フーコーの忌み嫌う“人間という発明”は、この絵画からは、依然として、消えてはいないのではないか。この絵画は、「タブローの中心が空白であることによって」開放した表象とは、名指され得るものだけであって、近代的な意味しか有していないということなのだろうか。
 つまり、フーコーはこの絵画の中に、近代のエピステーメ以上のものを見いだしてはいないということなのだろうか。

 言葉は、曖昧なものだと思う。曖昧に書くことによって、かえって詩のように、様々な空想と憶測の余地をのこすことができる。フーコーの語る厳密で正確な言葉も、“言葉”によって“物そのもの”を語ることはできないということを、語っているように思える。言葉の中に様々な意味と、時間的に流動する表象を持たせることができるという意味で、言葉は物以上に豊かである、と同時に、いくら断定しても、言葉は“曖昧”であると言うことができるのではないか。
 言葉は、言葉自身を再定義しつつ、永遠に循環しているように見える。
 だとするなら、特定の時間の、特定のテクストの中で語られた“言葉”に、特定の意味を確定的に割り当てること自体が、不可能なのかもしれない。
 しかし、フーコーは、16c、古典主義時代、近代のエピステーメは、それぞれたったひとつであり、それによって“知”が成立していると言う。しかし、そのエピステーメ自体は、実体的なものではなく、ポジティブに定義することは不可能であり、よって、漠然とネガティブに類推することしかできないのではないか。
 だとするなら、言葉は、やはり、ひとつのメタファーであって、厳密に“物”とのフィードバックによって、実験的、数学的に規定しがたいものだろう。(言説自体を証明する論証は、フーコーの行ったことだったとしても、彼の論証が真であるかは、その論証自体の中にはふくまれ得ない。)
 だとすれば、たとえば、ベラスケスの『侍女たち』を、フーコーの言う(あるいは言っ
たであろうと私が理解する)知のエピステーメによって、どのように表象され得るかを類推してみることは、フーコーの言う“知のエピステーメ”が実際にどのようなものかを知る上で役に立つ、ひとつのゲームのようなものかもしれないと思った。
 下記の表は、それぞれ、“★”印のついたところに、主体を置いたとき、どのようにこの絵が見えてくるかを考えてみた表である。
 
 

3.表

『侍女たち』の“見え方”(表象)による時代エピステーメのメタファー表




 

“見えるもの”あるいは“存在するもの”

時代区分

鑑賞者(主観)の存在

権威(神・王)

鏡の存在

絵の中の絵の裏側(表面)に、絵の中の画家が描いているもの

絵の中に描かれた画家の存在


16C


不在

あり


絵の中の王と王妃を映した鏡は本物

王と王妃

偽者
(時間的に2人いる)



古典主義時代


不在

なし

画面の手前にこの絵全体を映す大きな鏡が存在する。
(画家はその鏡を見てこの絵自体を即時的に描いている。)
絵の中の王と王妃を映した鏡は、ただの肖像画
ただし、扉を開けている老人(フェリーぺ3世?)は幽霊。


王女マルガリータ
(この絵そのもの)



本物
(大きな鏡に映った画家自身)



近代


存在



幽霊としてはあり得る


鏡は存在しない。あるいは、この問いそのものが無意味。
絵の中の王と王妃を映した鏡は、ただの絵か、鏡だとしたら、幽霊が映っている。
鑑賞者を描くのに、何故宮廷内に舞台を設定しなければならないのか、不明。


鑑賞者

幽霊
(時間的に矛盾する)

 

 16cは、権威が主体だったと仮定した。そのとき、王と王妃が主体となるはずであるから、絵の中の鏡は“本物”となる。だとすると、画家が絵の中で描いているものは“王と王妃”の肖像画であることになり、画家は、われわれ鑑賞者を見ていないことになる。(鑑賞者は不在である。)しかし、だとすると、この絵の中に描かれている画家は、いったい誰が描いたのだろうか?
 鏡に映っている自分自身を描いたとすれば、この絵の中の鏡(王と王妃)はパースペクティブ上、破綻する。したがって、絵の中の画家は“偽者”となり、あとから、“王と王妃を描いた宮廷での場面”を回想して、この絵は描かれたと解釈できるだろう。すなわち、この絵そのものは、リアルタイムで描かれたものではなく、すべて画家の記憶、もしくは想像によるものである。
 

 古典主義時代にあって、見えるものを名づける“鑑賞者”が主体であったとするなら、この絵そのものを描いた“画家”自身が主体になると仮定した。そのとき、この絵そのものがリアルになる。だとすると、画家は、この絵に描かれた場面そのものを、大きな鏡に実際に映して、リアルタイムでこの絵自体を描いていたことになるだろう。しかし、そのとき、この絵の中の王と王妃の映った鏡は、フィクションとなる。(パースペクティブ上)
 また、重要なのは、大きな鏡があったとして、その鏡の向こうにあるものも、鏡を透かして映し込めなければ、扉を開けた老人(現国王フィリーペ四世の父上、フィリーペ三世)を描けないだろう。また、リアルタイムでこの絵を描いたとすれば、そして、扉を開けている老人がフェリーペ三世だと名指すことができるとすれば、彼は幽霊に違いない。
 

 近代は、タブローの中に人間自身(タブローを作った知の対象に、その主体自身)を入れ込んだとするなら、この絵を表象している“鑑賞者”自身がこの絵の中に入っていると仮定した。だとすると、絵の中の絵に描かれているのは、絵の中の画家が“今”見つめている“鑑賞者”である。しかし、時間的に、17cに生きたベラスケスがそれを見ている“私”を“絵の中の絵”の表面に描けるわけが無い。したがって、絵の中の画家は、“幽霊”であることになる。同じように、“幽霊”なら、絵の中の鏡に、王と王妃(権威)が、実際に幽霊として時代を超えて映りこむことも可能だろう。
 
 以上、ゲームのように、3つのエピステーメから、この絵そのものをどのように画家が描いたのか推理してみた。
 
 ひとつ気づいたことがある。
 ベラスケスが絵の中心に描いた「王と王妃」を、フィクションだと仮定した瞬間から、様々な“幽霊的”存在が出没しだすということである。つまり、16cにあっては権威であった神とか王とか言う絶対者を排除した瞬間、古典主義時代においても、近代においても、“幽霊”が出没せざるをえなくなってしまうようだ。
 古典主義時代においては、過去に存在していた父王が“幽霊”となり、近代にあっては、“画家自身”が幽霊となる。
 しかし、この絵の中では、3つのエピステーメが共存し、“幽霊”たちも同時に存在することができる。
 ひょっとして、近代を超えるエピステーメは、様々な“幽霊”が自立的に浮遊し、その“幽霊”を主体として“知”が、生きている人間とは無関係に規定されていく事態が可能になるのかもしれない。
 
 

4.最後に

  私が鏡を見たときに、本当に自分自身を見ることができるのだろうか?

 この絵を描いた画家、すなわちベラスケスこそ、この絵を表象した主体である。
 そして、彼は、自分自身を絵の中に描いた。
 そして、実際は自分が映っているはずの鏡に、王と王妃を描いた。
 絵の中の画家が見つめている視線の先は、鑑賞者の位置にあり、同時に、王と王妃の映った鏡の正面にある。
 この視線の構図が、様々な“表象する主体の中心”を、この絵の中に想定することを可能にさせる。
 つまり、フーコーの言うように、コンポジションの中心が空白であり、この空白に、複数の“表象”を想像することができる。
 だとすると、そこに割り当てられる“表象”は自由となり、「その眼には表象が類似物にすぎぬところの者」から自由となって、「表象は純粋な表象関係として示されることができるわけである。」
 しかし、それを表象する“主観”そのものは、“人間という最近の発明”に、依然として、とらわれ続けているのであろう。
 だとすると、主体的に“表象”していると自覚しているはずの“主観”は、実際には、存在していず、単に、“エピステーメ”を“主体”として、われわれは、“表象させられている”可能性もある。
 “表象している”主体そのものが消滅し、主観の存在しない表象そのものが、自立的に存在することが可能なのだろうか。だとすると、“表象”そのものが自立的に存在し得るということなのだろうか。
 われわれは、生きている人間の営みこそが全てであると思い込んでいる。しかし、様々な“幽霊”たちが、私自身を映していると信じている鏡に、自立的に映りこんできているのかもしれない。そして、“幽霊”によって“知”が規定され、生きている人間とは無関係に歴史が動かされる事態も生じ得るのかもしれない。
 いったいそれが、現実的にはどういうことなのか、私にはまったくわからない。
 だから、私はただ、これから起きる歴史的出来事をできるだけ注意深く見ていきたいと思う。また、現代のポストモダニストたちの言っていることも、これから読んでみたいと思っている。