レポート「構造主義について」

下記は、この前書いたレポートです。


構造主義について』

レヴィ・ストロースの構造体験から、構造主義の肯定的側面と否定的側面を考察する−

表現芸術系専修 3年 murasaki genji


ヤーコブソンの教えは私に全く別のものをもたらした。それは、はるかな利点というべきかもしれない。即ち、構造言語学の発見であり、このおかげで私には、1940年の5月はじめ、ルクセンブルクの国境付記のある場所で、野生の花に見いった際に沸いた夢想を、ひとまとまりの首尾一貫した概念へと結晶させることが可能になろうとしていた。」(『言語学の教え』)
 どうやら、レヴィ・ストロース構造主義は、野生の花を見入ったときに突如閃めいた“夢想”から結晶化された思想であるらしい。
 それでは、何が突然閃き、彼は何を構造人類学というシステマティックな思想にまで体系化させたのだろうか。

(以下、自由国民社 芳川泰久先生著『書斎のトリコロール』Ⅱ知の肖像/小説の皮膚 構造・植物・家族 を参照。)
 レヴィ・ストロースプロヴァンスの森の中で、“背の高い踊り子たちの一群”を見たのだった。その“背の高い踊り子たち”は、“もっともあらわな姿態”でバレエの仕草を止めていたかもしれなかった。つまり、“背の高い踊り子たち”がレヴィ・ストロースの視線に気づいた瞬間、自らの秘部をあらわにしたまま、バレエの仕草を止め、一斉に無言で彼を誘惑した(あるいは、する)夢想。
 彼は、そのとき、踊り子の群れの中に走り入り、エロスの歓喜に包まれた、のではなく、こともあろうに、構造分析に走ったのだった。
 “背の高い踊り子たち”とは、香気を放つ花開いた植物たちのことである。
 彼は、視線を逸らすことによって、踊り子たちの誘惑から逃れた。そして、頭の中で考えた。植物の性に対するエロティックな憧れを、構造主義という「ひとまとまりの首尾一貫した概念へと結晶させること」を、“考えること”は可能にした。無味乾燥なヤーコブソン言語学の方法論によって。
 「その意味で、植物愛とは反=構造への意志でもある。レヴィ=ストロースがなんと言おうが、「構造」を手にしたとき、彼はエロスを封じることに同意していたのだ。」(『書斎のトリコロール』P.149)と芳川先生が言っていることに私は全く同感である。
 彼の秘めたる願いは、植物愛の実践だったにちがいない。彼はその願望を構造分析へとシフトさせたのだ。

 今更言うまでもなく、レヴィ・ストロースは『構造人類学』の中で、家族関係の風習習慣を分析した。そして、“甥と母方のおじの特権的関係”に着目した。その関係を+と−(良いと悪い)の二項対立の軸に分けると、未開社会の家族、世代間に存在する様々な関係性のヴァリエーションを全部で5種類に分類できることを発見した。
数学の組み合わせで言えば、父・母・子・おじ(夫・妻・子・母の兄弟)間の+と−の関係はもっと多数のヴァリエーションがあることは当然であろう。しかし、実際の家族の関係では全部で5種類しかない。その全体を構造と呼ぶなら、その構造を作った目に見えない糸が存在するはずである。その目に見えない糸は、“近親相姦の禁止”というタブーであることもまた、彼は発見した。
「われわれが定義したような親族の基本単位の本源的で還元不可能な性格は、実は世界のどこでも例外なしにまもられている近親相姦の禁止の直接の結果なのである。」(『構造人類学』)とレヴィ・ストロースが言った瞬間、近代の家族は崩壊した。
 逆に言えば、“近親相姦の禁止”というタブーは、世界のどこでも例外なしに守られている親族の基本的単位を体系化しているに過ぎない。だとしたら、いったいこの家族とか親族とかいうユニットは、本当に人間社会にとって有用なものなのだろうか、という疑問が同時に生まれてくる。
フロイトによれば、精神病のすべては、親子関係に起因している。それが社会にまで拡大し、戦争という精神異常をも起こしているのではないか。戦争に明け暮れた近代社会の弊害から脱却するためには、われわれはあえて、前世代に反旗を翻し、“家族”というユニットを葬り去らなければならないのではないか。そんなことを無意識に考える時代潮流が形成されつつあったのかもしれない。

 構造主義は、その後の思想界を席捲するまでに大流行し、『野生の思考』を読むことは、一種のファッションになるまでに若者の心を捉えた。それが、ポスト・モダンの象徴であり、形骸化した産業社会システムに風穴を開けるほどの何か新しい発想が隠されているかのように、たぶん、若者は、社会改革、否、社会革命の手引き書を発見したかのような期待を込めて、この書を手にしたのだと思う。
 確かに、60年代は、戦後生まれのベビーブーマー達の革命の時代だった。
 彼らは、新しい社会を求めて、様々な試行錯誤をした。彼らの理想の共同体とはどんなものだったのか。また、自由で愛に満ちた平和なユートピアは、どのように実現できるか。
 おそらく、レヴィ・ストロースの思想の中に、そのような理想の共同体を志向する欲望が隠れていることを敏感に嗅ぎ取ったからこそ、『野生の思考』は若者の間であれほど流行したのではないか。レヴィ・ストロースが視線を逸らし、見ることを拒んだ“植物の性”。彼の意図とは無関係に、レヴィ・ストロースが分析した家族関係の構造にではなく、“野生の花に見いった際に沸いた夢想”の方に、若者たちは新しい共同体の“理想の姿”を空想したのではないか。
 彼の“夢想”は言語化される以前の個人的閃きである。しかし、それがどんなものなのか想像することはできる。想像は客観的分析ではない。しかし、レヴィ・ストロースが、“夢想”という言葉を使った瞬間、読者は自由勝手気ままに、それがどんなものだったのか空想することを許されたも同然だ。

植物は、フリー・セックスどころか“乱婚”であり、“雌雄同性”であり、“近親相姦”さえ厭わない。そこには“世代間の対立”も無ければ、“エディプス・コンプレックス”も“マザコン”も存在しない。あらゆるフロイト的精神病から解放されたトラウマ・フリー社会であり、戦争好きなペニス志向のマッチョも存在しないから恒久平和社会であり、はじめからジェンダー・フリーだからホモセクシャルレズビアンもことさらカミングアウトしなくても共同体に初めから受け入れられている。
 確かに理想の社会であることは間違いないだろう。
 さらに言えば、“植物の性”を実現した社会には、時間すら存在しなくなる。熱力学の第三法則を持ち出すまでもなく、熱の拡散は二酸化炭素を取り込むことによって自己組織化され、エントロピーをもはや発生しなくなる。時間という一方向に向かうベクトルは収束し、永遠の循環運動となり、“歴史は終わる”のだ。そもそも“世代”そのものが存在しないから、世代間の闘争も当然存在しない。時間の止まったユートピアの中では、もはや永劫回帰の眩暈を感じることもない。初めから終わりまで自己は他者と同一であり、あらゆる差異が真昼の天頂の太陽によって光合成を行う社会では、もはや富の争奪も、貨幣も、貧富の格差も生じない。資源略奪の領土問題も解決し、国境もなく、社会階級も存在しない、まさに光に満ちた歓喜の世界である。

若者は“ユートピア建設”のための理論武装のために、レヴィ・ストロースという“権威”を意識的に選んだ。そして『野生の思考』を小脇に挟んで、父親に反抗したのだ。(また、ときにはライヒの性革命思想をも援用した。)そして、フリーセックス・コミューンを実際に建設した。そうしたコミューンは、A・ハクスリーの『すばらしき新世界』のユートピア社会を彷彿とさせる。そこでは、フリー・セックスが実践されている。そして、子供は、親なしで育てられる。誰が誰の親だか子だか分からない。共同体全体で適切な教育を施すのだ。そうすれば、精神異常にならない、心に何のトラウマも持たない健全な人間が生産されるはずである。親も子もないから、世代というものも存在しない。歴史すら存在しなくなる。セックスの欲望が抑圧されることもないから精神も健全である。父権的ファルスも存在しないから、男の子は一神教的世界征服の夢も見なくなる。
たぶん、フリーセックス・コミューンを2,3世代持続させれば、親子という概念をまったく持たない人間が誕生し、彼女ら彼らが共同体を運営するようになれば、まったく新しい人間社会がこの地球上に出来ていたかもしれない。

 私も70年代後半になってから、遅ればせながら、そのような“理想の共同体幻想運動”に自ら巻き込まれた。
 オウム真理教などというカルトができる10数年前に、インドのフリー・セックス教団と言われていた新興宗教に入信し、過激な洗脳的瞑想などを行った。その後、カリフォルニア山中の自給自足コミューンに身を置いた。
 その頃、書店には構造主義やポスト・モダンの思想書がちらほらと並べられ始めた時期だった。しかし、残念ながら、それら異様で魅力的なオーラを放つ本を手に取ることはしなかった。思想よりも体験を求めていたからだ。しかし、たぶん、それらの著作を煮詰めれば、最も過激なエッセンスとして、“理想の共同体革命”を志向する“ユートピア思想”があぶり出されてくるだろうことは予感していた。しかし、同時に、それが何故実現できないかという客観的“現実分析”が常識的に書かれてもいるだろうと、不遜にも高をくくっていた。(権威ある思想書は、常に一定の“常識”の衣を纏っている。私はそうした“常識”が“現実的”であることを認めたくなかった。それはまさにただのタブーによって成立しているだけの臆病な現実なのであり、何の根拠もない暗黙のタブーを無視すれば、常識を形作ってきた権威も崩壊する。権威の下に安住しているだけでは、世の中は何も変わらない。そんなことを思っていた。)
 しかし、はたしてレヴィ・ストロースの著作には、実際どんなことが書かれていたのか。20数年後の今になってそれらを読む機会に恵まれ、すばらしい手引書を座右に置いて紐解いてみた。すると、構造主義とは、たった一つの禁忌をもとに、差異の体系が出来上がっている構造そのものによって、我々の行動は決定しているらしいことを、どうやら暗示している思想らしいことを発見した。しかも、その禁忌は隠されており、差異だけが見える。しかし、隠された禁忌を暴くことこそ、構造を理解することと等しい。が、同時に、その禁忌そのものには合理的根拠はどこにも存在しない。それは体系そのものによって成立しているに過ぎない。同時に体系そのものが禁忌の意味を生じさせている。我々の社会もそのような構造によって出来上がっている。そして、近代的自我としての、実存としての“個人”は、実は、そうした構造によって行動しているに過ぎない下部構造であることを、暗に告発している思想らしいことが分かった。
 たぶん、その頃話題になった“ゲーデル不完全性定理”も、同じような思考から生み出された思考に違いない。われわれは、命題の拠って立つ“根拠”を希求していた。しかし、それらは既に、“差異の体系”の中での“相対的”な真理でしかなく、“実体”としてはどこにも存在しないというある種の“新しいスタンダード”が出来上がりつつあったのではないか。

 絶対的真理などというものは存在しない。
「是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界」とお釈迦様がシャーリプトラに語ったように。
それが最高の知恵であり真理であると語ったように。
変化の他には何も存在しない。
変化すること自体が不変の法則であり、その中では実体的真理などは初めから終わりまで存在しないのだ。

 “構造”とはいわば、顛倒した夢想によって凝り固まった無明の体系であり、体系そのものの根拠が無であることを看破すれば、その体系そのものもまた空に帰する。そのとき、「遠離一切顛倒夢想究境涅槃」、つまり真に自由でこだわりのない境地に到達できる。構造主義とは、いわば既存の体系を空に帰する試みだったのではいか。
 もしかしたら、間違っているかもしれない。また、そこまで極端なことは、レヴィ・ストロース自身は何も言っていないと反論されるかもしれない。が、初めに立ち返ってみよう。「野生の花に見いった際に沸いた夢想」とは何だったのか。

構造分析は客観科学ではない。当然、彼の導き出した“構造”の中には、彼個人の恣意的な“意図”が隠されているにちがいない。それがすなわち、“近親相姦の禁止”というタブーでもあるのではないか。
 少し精神分析的になりすぎたかもしれない。
 しかし、彼が視ることを拒絶した光景は、彼の憧れそのものでもあったのではないか。だから彼はそれを直視できなかった。そして頭の中で概念化させたのだ。植物の性と人間の性との鏡像関係を頭の中に描いてみたとき、植物のユートピアにはない、人間社会の反ユートピア的“タブー”の要素が浮かび上がってきた。逆に言えば、そのタブーによってわれわれ人間の社会は体系化されている、という“構造的直観”。彼はそれを言語によって結晶させたのではないか。
我々の社会では、エロスは既に体系化されてしまっている。しかし、その体系化されたエロスそのものを構造という動的関係として再び概念化させることによって、タブーによって拘束される以前の言語にならないエロスの姿を、逆に意識の上に登場させることに成功したのだ。レヴィ・ストロース自身の意識の上にだけではなく、彼の著作を読む読者の意識上にまで。背の高バレリーナたちの誘惑のポーズを。“もっともあらわな姿態”でバレエの仕草を止めた瞬間、彼女らが人間社会に突きつけてくる無言の挑発を。それは、人間社会が互いに殺し合い、奪い合い、精神病になっているのと同じ舞台で、無言で繁栄しながら、生命を育む酸素を供給し続けている、同じ地球上に存在する同じ生命でもある。
 だから、構造主義とは、そもそもシステマティックな数学ではない。フーコーが抹殺したい“人間”は、時として、植物になりたいとまで夢想する。しかし、人間である以上、人間社会そのものからは逃れられない。だから、人間は自らの主観によって、自らが蠢く社会そのものの構造を“恣意的”に再構築して概念化してみなければ気がすまない。逆に言えば、人間社会とは何なのだろう。いくらでも恣意的想像によって変えられる虚構から構成されている、ただの構造なのではないか。われわれはその中で踊らされている。我々自身がつくった虚構の中で、踊らされることに飽き飽きしている人間自身が、その構造そのものを変える手立てを夢見ている。
植物の踊り子たちは、そんな哀れな操り人形の、出来の悪い三文オペラを横目で見て、本当にエロティックな愛の喜びのバレエを踊って見せてくれたかもしれない。

 したがって、構造主義の肯定面と否定面を要約すれば、次のようになるかもしれない。
 まさしく、芳川先生が「レヴィ=ストロースがなんと言おうが、「構造」を手にしたとき、彼はエロスを封じることに同意していたのだ。」と言われたように、言語化され体系化された数学的幾何学的思想の中にはエロスは存在しない。それは差異のパラメータの中で数値化される過程において熱を失ってしまう。そして、“構造”という変化しない幾何学に固定化されてしまう。しかし、その固定化された図形を自由に動かす空想を働かせるとき、構造を形作っていた目に見えないエネルギーを再び想像することが可能となる。
 逆に言えば、構造を形作る目に見えないパラメータを何処に設定するかという選択は、恣意的な閃きでしかない。したがって、例えば人類学者によって分析された社会構造を、あたかも客観的科学法則のように固定化して考えてしまう受け手の側の意識こそが否定的側面であろう。また、構造によって抹消される“実存的”主体は、すなわち、構造化によって思想的に抹消させたいという意図を持っていた張本人であることに気づくとき、構造主義が真に抹消させたいものは、人間を封印していた構造そのものであることが、逆に明らかになってくる。そのとき、構造によって封印されていたエロスそのものが、言語化されないまま、鮮やかに蘇ってくることこそ、構造主義の真に肯定的な側面なのではないかと思う。