カフカの『変身』

 第二文学部表現芸術系専修 1年生のときのレポートです。


 カフカの『変身』について



 1914年、オーストリアの皇太子がサラエボセルビア人青年に暗殺され、第一次世界大戦の端緒となった翌年の1915年にこの物語は書かれた。この時期は、近代国家=国民国家の成熟期であり、産業資本主義の発達と伴に産業構造が激変しつつある時期だった。農村で自給自足していた農民は都市に流入し、賃金労働者として工場で働くようになった。「神が田園をつくり、人間が都市をつくった」と言われるとおり、都市文明が発達すると、それまで農村で自分で食べるものを作り、そのために額に汗をして働き、自分で収穫した作物を食していた農民は、都市に出て賃金をもらうために工場で働き、労働の対価としての貨幣で商品を買い、それを食して生きることになり、動物としての人間本来の生存本能から徐々に疎外された生き方を余儀なくされるようになっていったのではないだろうか。そして、貨幣による消費社会においては、労働は多様化し、都市においては学歴、職業、地位、貧富の格差などによって社会的ヒエラルキーが暗黙のうちに出来上がり、いつの間にか職業が、自己存在を証明する唯一のものとして認知されるようになってしまったのではないか。しかも、近代国家において、社会資本の整備による工業社会の発達は資源獲得のための他国との植民地争奪競争に発展し、国民は国家の兵隊として狩り出され、自らの命まで国家に捧げるようになってしまった。

 このような状況の中で、カフカは自分自身を、地域社会から国家から世界から、疎外された存在のように感じていたのではないだろうか。

 「彼の生涯を苦悶の連続たらしめたキズは、生誕とともにはじまる。彼は、ユダヤ人として生まれたが、ヨーロッパ化されたいわゆる「西方ユダヤ人」であり、民族としての強固な存在を保持している東方ユダヤ人、正統ユダヤ教徒には属していない。が、ユダヤ人として、キリスト教世界にも属していなかった。さらに、ドイツ語使用者として、チェコ人でもなければ、ドイツ語を使用するからといって、ボヘミア・ドイツ人でもなく、にもかかわらず、ボヘミア生れとして、オーストリアにも属していなかった。また、労働者災害保険局の吏員として、市民階級でもなく、商店主の息子として、労働者階級でもなく、それかといって、みずからを作家と感じていたから、官僚階級でもなく、また、自分の力の大部分を専制的な父が支配する家庭との戦いについやしていたから、完全な作家でもなかった。しかも、『父への手紙』(Brief an den Vater) にのべられているように、
「ぼくは、ぼくの家庭のなかで、他人よりもなおいっそう他人のように暮らしている」のだった。さまざまな世界にすこしずつ属しながら、どの世界にも完全には所属しない、生まれながらの「異邦人」ないし賎民、これが、彼の生誕の宿命的星座であった。」(カフカ『城』あとがき 前田敬作)

 『変身』は、この「どの世界にも完全には所属しない、生まれながらの「異邦人」」(前述)としてのカフカが、職業によってしか社会から認知されない自己存在を、徹底的に嫌悪して描いた、リアリズム小説なのではないだろうかと、私は思った。そして、同時にこの小説は、自己を職業によって認知できない不幸な「異邦人」である自分自身への自虐的自画像のようにも思える。

 物語の冒頭、自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気付いたセールスマン、グレゴール・ザムザは、仕事を無断欠勤する事態になってしまう。しかし、彼は潜在意識の中で、常日頃、仕事を嫌悪していたに違いない。グレゴールの一家(父、母、妹)はグレゴール一人の稼ぎで生計を立てていた。だから、グレゴールがその仕事にやりがいを感じていようといまいと、生計を立てていくための義務として彼は仕事をしていたに過ぎないない。しかし、その日は朝5時の汽車に乗って出張に行かなければならないというのに、朝から雨が降っており、陰鬱な天候だった。しかも、彼は寝過ごして仕事に遅れてしまったのだ。

 「もうすこし眠りつづけて、馬鹿げたことはみんな忘れちまうとしたら、どうだろう、と思ってもみたが、さりとてそんな真似はとても出来ない相談だった。」(『変身』岩波文庫 山下肇訳)

 ベッドの中で仕事に遅刻してしまったことに気付いた彼は、自分が虫になってしまったと想像して、現実から逃避していたのかもしれない。なぜなら、仕事を無断欠勤することは会社から解雇されることを意味し、その結果失業してしまえば、自分は社会的には何の訳にも立たない虫けら同然となり、生計を立てられなくなった家族も彼のことを虫けら同然に非難するだろう。人間が虫に変身することはありえない非現実だが、会社を無断欠勤して失業してしまった一家の主が、社会からも家族からも虫けら同然に扱われるのは、現在でもありえる現実であると思う。

 会社に1分でも遅れれば遅刻になる。ましてや無断欠勤すれば職を失い、労働の対価を得る機会さえ奪われてしまう。そのような社会が作られたのは、いつごろのことなのだろうか。

 19世紀の産業資本主義の発展にともなって国民国家が形成され、都市には工場労働者が時計の歯車のように集団で規則的に労働するようになったとき、人々はいつの間にか勤勉さを美徳とするようになり、消費を快楽とするようになっていったのではないか。しかし、その反面、無意識のうちでは人間性が疎外され、貧富の格差や資本家と労働者の身分差別、職業差別などの社会矛盾を抱えながらも、いつの間にか物質的豊かさだけを追及する価値観が支配的になってきてしまったのではないだろうか。

 カフカは1883年にプラハで生まれたユダヤ人だった。19世紀半ば、フランス革命の影響で、ゲットーからユダヤ人が解放され、職業選択の自由、改宗の自由、結婚の自由が許された。(「1848年、フランスの二月革命はドイツに飛び火し、ドイツ革命がおこった。フランクフルトのパウロ教会では国民議会が開かれ、若くして洗礼を受けたユダヤ人のエドゥアルト・シモンが議長に選ばれた。-略- そしてそこで1849年、全市民に完全な平等権を与えよとの決議がなされた。-略- オーストリア・ハンガリー帝国では1867年12月の「基本法」により、民族、宗教を問わず完全な市民権が与えられた。」 -講談社現代新書ユダヤ人』上田和雄 より引用)
 カフカの父は、そうした時代に同化した西方ユダヤ人で、商売を裸一貫から始めて成功した商人だった。しかし、その後、ナチの台頭によって再びヨーロッパの反ユダヤ主義が復活し、ユダヤ人絶滅が叫ばれてホロコーストの悲劇が生まれる。カフカは、同化ユダヤ人として、1924年、ナチによる反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れる前に、ウイーン郊外のサナトリウムで亡くなった。年の離れた三人のカフカの妹たちは、「ナチス・ドイツの手によってかの悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所の犠牲者となった。」(『変身』解説 山下肇

 勿論、カフカは妹のその後の運命を知る由もない。しかし、『変身』において、社会からも家族からも疎外された虫けらが屋根裏部屋に放置されている場面を読むと、その後のナチによるユダヤ人迫害と、それを逃れて屋根裏に身を潜めて生きるユダヤ人の姿がオーバーラっプしてきてしまう。この作品は、その後のナチの台頭とユダヤ人の絶滅までも予見しているかのような不気味な作品に思えてくる。

 1955年アラン・レネ監督の映画『夜と霧』の中で、骨と皮になったユダヤ人が裸でガス室に送られ”効率的に”殺されていく強制収容所の同じ敷地の中で、ナチの軍人は家族と伴に”平和な市民生活”を送っていた地獄の映像を見たとき、私は、言いしれぬショックを受けた。そして、連合軍に捕まって裁判にかけられたナチの軍人の口から出る言葉は決まって「命令を忠実に実行しただけだ。私に責任はない。」という言い訳だったというナレーションを聞いて、私はカフカを思い出した。
 ナチの非人道的殺人も、軍人という”職業”に忠実に携わる勤勉な労働者として殺人を実行していただけだと言っても、同じ人間として誰もその行為を許しはしないだろう。

 『変身』のなかで、セールスマンの職を追われて部屋に閉じ込められた哀れな虫が、最愛の妹のヴァイオリンの音を聞いて、部屋から思わず這いだしてしまう場面が描かれている。
 「グレゴールはさらにいくらか前ににじり出て、できることなら妹と視線があわないものかと床すれすれに頭を低く下げていた。これほど音楽に感動しているというのに、彼はやはり一介の虫けらなのだったろうか。」(『変身』)
 この「これほど音楽に感動しているというのに、彼はやはり一介の虫けらなのだったろうか。」という一文は、この物語でカフカが本音で発した唯一の独白のように私には思える。

 職業的社会的地位で人間を認知する社会。そうした世間から見放され、今や忌まわしい虫けらになったグレゴール。しかし、彼は誰より妹を愛しており、何よりも芸術を愛する純粋な人間の心までも失ったわけではなかった。しかし、その彼が、まさに虫けらとして、それも他ならぬ最愛の妹に扉の閂を占められて、狭い部屋に餌も与えられずに閉じ込められ、虫けら同然に死んでいく姿を描くことによって、カフカは、読者に痛烈な挑発の問いを発したのではないだろうか。
 その問いとは、職業に忠実になること、ひいては何の疑問も抱かずに、労働者が歯車のように職務を遂行する社会が、果たして人間にとって本当に幸福だと言えるのか?という鋭い問いだったと、私は受け止める。

 「現代社会は、その経済的機構の不可避的な帰結として、人間を「自己疎外」の状態におとしいれた。人間を社会という巨大なメカニズムのなかのたんにひとつの歯車たらしめることによって、人間を徹底的に機能化し、抽象化し、非人間化してしまった。人間とはすでに一個の歯車、職業という形で受けもたされているひとつの機能にすぎない。」(カフカ『城』あとがき 前田敬作)

 32才だったカフカは、妹の幸福を願って死んでいく自らの運命を予感していたかのように、虫けらになったグレゴールの死後にバカンスに出かける家族を最後に描いている。

 「近頃めっきり美しく華やいで娘ざかりになってきたことをおもういうかべた。夫婦はおもわず言葉すくなになっていき、なにげなく目顔でうなずきあいながら、さあ、そろそろこの娘にいい婿さんでも探してやらにゃ、と考えていた。降りるところまできて、娘がまっさきに立ちあがり、若い肉体をのびやかに動かしだすと、夫婦にはそれが、まるで自分たちの新しい夢と善い意図とをたしかに保証してくれるものようにおもわれた。」(「変身』)

 しかし、歴史は残酷なもの。三人のカフカの妹は、前述のようにアウシュヴィッツ強制収容所の犠牲者となった。

 第一大戦の前夜に描かれたこの物語は、成熟しつつある近代国家と産業社会における
”職業”という義務によって疎外される人間の矛盾した姿を描きながら、その後のナチによる効率的官僚的機能的非人間的組織のうみだした悲劇をも予見するような不気味な物語であると感じた。しかも、自虐的な嘲笑を含んだ言い知れぬ得たいの知れない悲喜劇であるこの物語は、職業と時計の時間に人間が支配され、歯車として無責任に無自覚に労働していることを善しとする隷属的労働社会が続く間は、時代がいくら変化しても生き続け、鋭い問いを発しつづけるリアリティーを持っていると私は思う。

 この奇妙なリアリズム小説を書き上げた作者は、何物にもアイデンティファイされない異邦人として、死ぬまで自分を探して彷徨い続けた。しかしだからこそ、形骸化した社会通念に同化されることなく、人間に対する冒涜を敏感に洞察することができたのかもしれない。そして、彼の鋭い視力で洞察した社会的矛盾と暗い時代の予感を自ら引き受けて、自虐的に自分の姿を嘲笑し、滑稽に描いて見せたリアリスト、カフカに、私は何故か強烈に共感する。