プロティノス

プラトン主義が彼によって始まったとされる哲学者であり、その後の“神秘主義”に多大の影響を与えたとされる思想の創始者として、彼は、『プロティノス全集』第一巻の年譜(中央公論社])によると、西暦205年、エジプトで生まれたとされている。27才でアレクサンドリアで師を求めた彼は、そのとき既に、岩波国語辞典で言うところの「直観力で神・絶対者を直接に体験したい」という知的好奇心を内に秘めていたに違いないと私は思う。そして彼はアンモニウスの弟子になり、以後11年間彼のもとで勉強した。ポルピュリオスの『プロティノス伝』(『プロティノス全集』第一巻)によると、「アンモニウスから学んだ教説は教えないで保持して、約束を守っていた。」(P.101)とある。そして、38才のときプロティノスペルシャへ行くことを企て、翌年、ゴルディアヌス帝がメソポタミアで暗殺されると、プロティノスはシリアのアンティオキアに逃れ、その年にローマに行った。そして、48才で著作を始めた。ポルピュリオスの『プロティノス伝』によると、「私ポルピュリオスが初めて彼に知られた時には、二十一篇の論文を書き終えていることがわかった。そしてこれらの著作は、少数の人びとにしか貸し与えられ(転写を許され)ないことを私は知った。」(P.103)とある。そして、270年、プロティノスは65才で病没した。
48才で著作を始めた彼は、「魂のなかに貯えておいたものを書き連ねて行ったのであり、そのありさまはまるで、他の著作から転写しているかとばかり疑われるほどだった。」(『プロティノス伝』P.112)とポルピュリオスは述べている。そのような著作の一つであると思われる『善なるもの一なるもの』(『プロティノス全集』第一巻)の中で、プロティノスは本来言語化できない“一なるもの”について言及している。以下、それを見ていきたい。(以下、「 」は『プロティノス全集』第一巻 9善なるもの一なるもの 中央公論社から直接引用。)


“一なるもの”へ至る思考プロセス

“一なるもの”とは形相を越えたものである。したがって、それを知るには、ただ相手と一体になるしかない
 プロティノスは、「一者とは何なのであろうか」と問う。そして、そのとき彼は、三段論法の中項を発見するというアリストテレスの方法を使わない。むしろ、「われわれの知識は形相に依存するものだから」「その形相もないところへ魂が向かうとなれば、それだけまた把握が全然きかないことになる」として、形相を超越したイデアの世界を直接扱うことを宣言する。三段論法は形相の世界の論理であり、“一者”は初めから形相を超えたところに存在するから、「魂はたちまちそこを脱け出ることになる」。
 それでは、従来の“理性による推論”が利かない世界にアプローチしようとするとき、いかなる知の方法があるのか。
 プロティノスは次のように言う。「ただ相手と一緒になることによって見る」と。すなわち、一者であるものと一体にならなければ一者を知ることができない。しかし、そのとき、体験している自分と体験する対象という主客の区別が既に存在しないから、まるで体験していないかのように思う。しかし、「知られるものが自分のほかにはない」と彼は言う。

 “一なるもの”とは万物の始めをなすところの善である。したがって、それを知るには感覚はどれ一つ差し加えてはならぬし、さらに、知性以前のものによって直知する他ない。 
プロティノスによれば、一なるものは既に善なるものである。それは、万有を生むものであって、万有から超越した原因だからだ。
原因であるイデアが善であるのは、プロティノス以前のプラトン主義者によって既に論証された“真理”なのだろう。しかし、現在そのようなイデア的“実体”を既に存在するものとして想定する哲学は過去のものと言うのが流行っているようだ。しかし、本当にそれは過去のものとして葬り去られた哲学なのだろうか。
ニーチェは、善悪は弱者のねたみだと言った。つまり、弱者が勝者に負けることを妬んで、悪という概念を作り、敗者である自分達を善とした。したがって、初めから善というこの世の世界を超えた理想的イデアがこの世の背後に存在するわけではなく、むしろ、この世界の最初に悪があり、悪によって善という理想が後から人間によって想像されたのだとする。したがって善と悪とは単にネガティブにしか定義され得ない概念であり、実体としてポジティブに存在しているわけではないという、プラトン主義とはまったく転倒した思考プロセスを執る思想だ。彼らには、この世とは別の超越界に存在する世界を創造した一者など初めから存在もしなければ、理想的イデアも、善も美も存在しない。したがって、神も、啓示も、人に神秘体験を起こす超越界も存在しないのだ。
しかし、プロティノスは次のように言う。

「むしろこれに触れることのできる者のためには、それは現にそこにあるという形で存在しているのであるが、しかしそのような接触の能力のないものに対しては現存しないのである。」 
そして、それは、理論でも推論でも立証でも思想でもない。「かのミノス王もたぶんこのような交わりに与った一人なのであろうか、ゼウスを知己にもつ者だと評判され、その交わりの記憶に基づいて、それの面影を法律に写し定めたのであるが、彼を立法者たらしめたものは、神的なるものとの接触による自己充実なのであった。」
 つまり、神は存在するし、啓示も存在する。そして、世俗的知識よりも、神的な接触の内に写された法律の方が優れていると、プロティノスは言うのだ。なぜなら、それを授けた一者は、善だからである。
 そして、ポルピュリオスが『プロティノス伝』の中で述べているところによると、プロティノス自身この神的なるものを体験している。「自分を第一位の超越的な神のもとに参入させたこの驚くべき人物の前に、「しばしば」かの神が、姿もいかなる(種類の)形相ももたず、知性と一切の直知対象を超えて鎮座ましますかの神が、現前した。」「ちなみに、私が彼のもとにいた時期(263〜268)に、ことばで言い表わすことのできない(魂の)活動によって、四度ばかり彼はこの目標に到達した。」(P.139)
また、ポルピュリオス自身も「六十八歳の私ポルピュリオスもまた、一度だけ接近し、合一したことを断言する。」(P.139)と言っている。
 もはや、体験した者にとって、それが存在するかしないかということは、既に議論する事項ではない。われわれ人間には、超越した一者について議論する言語もそれについて思考する能力も持たないのだとすれば、それはただ、「それは有る」という啓示によって示され、合一することによって体験される以外には知る方法のないもののように思われる。
 このように見てくると、プロティノスの“一なるもの”へ至る思考プロセスは、自ら体験してみるしか知ることができない類の事項であるらしい。しかし、そこに至るためには、言語によるプロセスが明らかに存在していることが分かる。
 つまり、それは、「言語的なプロセスによって導かれる体験」であると言えるのではないか。


言語的思考プロセスによって導かれる超越的体験は、一種の自己暗示ではないのか。
それともそれは、禅的な悟りにも似た正真の超越的体験なのか。
それともそれは、臨死体験のようなものなのだろうか。

「自己自身を識る者は、また自分がどこから由来するかということを知るであろう。」プロティノスは言う。しかし、その自己を知るための思考プロセスの中に、既にいくつかのアプリオリが存在しているのではないか。
即ち、善なる原因が存在していること、感覚の及ばないイデアの超越界が存在すること、そして、それを体験したという先達の体験に価値があるということ、である。
啓示が存在することは、どのように立証されるだろうか。神の存在を証明するのか、それとも、啓示された内容が人知を超える善であることを証明することによって、啓示が存在することを間接的に証明するのか。
最初の方法、神自身を直接体験することによって、神の存在を証明しようとするとき、あるいは、悟ることによって悟りの境地に到達しようとするとき、既にその動機自体に理想とするものについてのイメージが存在している。したがって、それを一心に求め、それ以外の思考、感情、感覚を遮断することによって、それに到達しようというのは、一種の自己暗示、あるいは、自己洗脳に似ているのではないか。
しかし、逆に、超越的な世界は存在しない、あるのはただの現実だけであり、現実の力関係だけに全ての事象は還元され得るとする所謂“リアリスト”には反感を覚える。
人間の世の中に“理想”が存在しなかったら、いったいどうなってしまうだろうか。善も悪もない、ただ力の強い者が勝つだけの人間社会が果たして幸福だと言えるだろうか。
プラトン主義の哲学を思うとき、私はいつも臨死体験のことを思いす。最近、臨死体験というものがクローズアップされ、死後の世界が存在するのではないかという真面目な議論がされるようになってきた。理想のイデアの世界とは、死後の世界のことではないだろうか、と私はしばしば思った。そして、臨死体験者が、死後の世界を体験したように、いつの時代にあっても、この世とはかけ離れた“あの世”を直接体験する人がいたし、今もいるのではないか、と思った。
しかし、臨死体験は、しばしばあの世の体験のように論じられているが、脳は明らかに生きており、だからこそ蘇生するのだ。そう考えると、脳内ホルモンの分泌状態に、臨死体験や神秘体験、啓示や悟りを還元させることも可能になるのかもしれない。いや、むしろ、現在の脳学者は、精神的作用を全て脳内に閉じ込められた物質的状態に還元させて説明することを、あたかも“知的”な推論だと勘違いしているようにも見える。しかし、脳活動に精神作用の全てが還元された唯脳論的世界では、脳内のペプチド・ホルモン以上の“善”や“美”の価値が存在しないばかりか、それらのイデアが存在する超越界も存在しないことになる。全ては化け学の原子記号が分泌される脳内の神経線維のシナプスの活動に還元されてしまう。そうなると、もはやプロティノスの著作など、ドラッグ体験と区別がつかなくなってしまうだろう。
しかし、心はただの脳内物質によるオートマンではないと私は信じている。脳内で勝手に生じた電気によって生起しているだけの心象に、“臨死体験”を還元させることはできないと思う。脳内に生じる電気信号には、何らかの“自律的な統合”、“主体的意味づけ”、“自覚の同一性”などが存在するはずである。そうして初めて、“意識”とか“記憶”とか呼べるものが存在できる。それらは単なるメカニックなメモリの記憶ではないはずである。そこには、自律的な主体が存在している。そして、それこそが、まさにプロティノスが「自己自身を識る者は、また自分がどこから由来するかということを知るであろう」と言うところの自分に他ならないのではないか。そして、まさにこの“主体”こそ“心”なのだと、脳学者のペンフィールドやエックルス、また神経学者スペリーも主張している。

【最高位の脳機能が機能を失った時に現れる自動人間には、まったく新しい決定を行うことができない。 ・・・略・・・ こうした自動人間の行動や、過去の経験のフラッシュバック現象は、脳の反射的な統合・調整作用の複雑さと見事さをはっきり教えてくれる。 ・・・略・・・ しかし、心の働きをこれら脳の仕組みだけで説明できるだろうか? 結局は反射的な働きがすべてなのだろうか? 長年にわたる人間の脳の研究の結果から私の答えは、「ノー」である。】
『脳と心の正体』 ワイルダーペンフィールド著 文化放送 p.94〜95

【神経学者スペリーはこれに同意して次のように語る。「意識に関しての我々の新しい見解によれば主観的価値観それ自体が脳機能と行動の原因となり、それらに強い影響を与えている。人間が決意するときには主観的価値観が常に決定的要素となっている。それはこの世界の出来事の最も強力な原因である。」】
『サイエンス・ニューストーリー』 ロバート・M・アウグロス、ジョージ・N・スタンシウ 著 丸善株式会社 p.101 (ジョン・C・エックルスが序を書いている)

 同様に、臨死体験においても、「心の主体的意志」によって、臨死者本人は、また肉体に戻ると報告されている。

【それで、わたしは戻る決心をしました。実際に戻ったときには、衝撃のようなものを受けました。衝撃とともに、自分の肉体に戻ったような感じでした。まさにその瞬間、死線から蘇ったのだと思います。 】
『かいまみた死後の世界』 レイモンド・A・ムーディー・Jr・ 著 評論社 p.111

脳と独立して存在する“心”などありえない。したがって、“心”や“魂”や“霊”などというものも肉体の外には存在しない、というのが現在のいわゆる“科学的”、“学問的”、“権威的”発想なのだろう。しかし、そのような物質には還元できない“心”(もしくは“魂”さらには“霊”)が、存在しないと明らかに証明することができないかぎり、そうした“科学的”思想も、根拠のない“信仰”の域を出ないのではないか。すくなくとも“心”は“脳”の死後存在しないと証明することは、不可能であるように私には思われる。
そして、古今東西の神秘家は、無いものが在るということを断言してきた。
パルメニデスが女神から授かったという詩の一説「そもそも、ないものを知るわけにはいかないだろう、そんなことはあり得ないから。言葉にするわけにもいかないから。」(『哲学の原風景』P.110)という言説も、“無”が無いと証明することの不可能性を言っているのではないか。そして、無いものが無いと証明することが不可能だとあえて言うのは、プラトン的な超越界の存在を肯定しているからだと私は思う。


超越的世界について

古今東西あらゆる宗教は、こうした超越的世界(死後の世界)を肯定してきた。そして、実体はないとする仏教ですら、如来蔵(タターガタ・ガルバ)という思想で、仏に成りえる実体が存在するとした(勝鬘経)。キリスト教では、人間が神の似姿として創造されたとする人間神化の思想がある(エックハルトなど)。また、イスラームにも内面的形而上的リアリティーの根柢である“ハキーカ”という思想がり、またスーフィズムには“ワリー”という「宇宙の内面的真理、存在の秘義、存在のミステリーに通じた人を指す名称」(『イスラーム文化 ―その根底にあるもの― 』井筒俊彦著 岩波文庫)がある。そして、仏陀も超越界の教えをただ隠していただけだとする見方もある。ヒンズー教の改革者であるゴータマは大衆への自分の教えを智慧の宗教の純粋に道徳的、生理学的な面、つまり、倫理と人間にだけ限定してしまった。“目に見えず、無形のもの”、私達のこの世の領域外にある存在の神秘には、この偉大な師匠は大衆への講和では全く触れることなく、阿羅漢達の選ばれたサークルのために、秘められた真理を守られたのである。」(シークレット・ドクトリン P.150 H・P・ブラバツキー著 竜王文庫)。
プロティノスも、アンモニウスのところに居た11年間は、秘密を守っていたとポルピュリオスは述べている。(前述) 
だとすれば、われわれが生きて輪廻するこの世とは別の超越的世界が存在することは、パルメニデス言うところの「聾にして盲のまま、呆けのままに世に流されていく」(『哲学の原風景』P.110)凡人とは別に、神のもとに参入した者にとっては、まったく明らかのことなのかもしれない。

【 
「先生、私はどうすれば輪廻から解脱することが出来るでしょうか。〔私は〕身体と感覚器官とその対象とを意識しています。〔私は〕覚醒状態において苦しみを感じます。夢眠状態においても苦しみを感じます。熟睡状態に入れば中断いたしますが、その後ふたたび苦しみを感じます。これは一体私の本性なのでしょうか。〔それとは〕別のものを本性としておりながら、なにかの原因によるものなのでしょうか。もし〔それが私の〕本性であるならば、私には解脱する望みはありません。自分の本性から逃れることは出来ないからです。もしなにかの原因によるのであれば、その原因を取り除くとき、解脱に達することが出来ると思います。」
師はかれに
「聞きなさい、君。それは君の本性ではない。ある原因によるものです。」
このように言われて、弟子は、
「その原因は何でしょうか。その原因を取り除くものは何でしょうか。私の本性は、一体何なのでしょうか。その原因が取り除かれたときには、その原因に基づいているものは〔もはや〕存在しません。病人は、その病気の原因が取り除かれたとき〔健康を回復する〕ように、私は自分の本性に立ち帰ると思います」と尋ねた。
師は、
「その原因は無明であり、それを取り除くものは明智です。無明が取り除かれたとき、輪廻の原因がなくなるから、君は生と死を特徴とする輪廻から解脱して、夢眠状態においても覚醒状態においても、苦しみを感じなくなるのです」と答えた。
弟子は、
「その無明とは何でしょうか。その対象とは何なのでしょうか。また明智によって自分の本性に立ち帰るわけですが、その明智とは何のでしょうか」と尋ねた。
師は答えた。
「君は最高我であって、輪廻しない。それにもかかわらず『私は輪廻しています』と言って、正反対に理解している。また行為主体でないにもかかわらず『〔私は〕行為の主体である』、経験の主体でないにもかかわらず『〔私は〕経験の主体である』、〔永遠に〕存在するにもかかわらず、『〔私は永遠には〕存在しない』、〔と、正反対に考えている〕。――これが無明なのです。」
・・略・・
アートマンは結合したものではないとしても、身体にすぎないと〔見做され〕、身体に付託されてしまうので、〔アートマンは〕実在せず、無常であるという論理的欠陥が起こります。その場合には、〔先生の御意見が〕身体はアートマンをもたない、とする虚無論者(=仏教徒)の主張に帰着するという論理的欠陥が生じるでしょう。」
〔師は答えた。〕
「それは正しくない。アートマンは、何ものとも結合していないとしても、身体などの一切のものがアートマンをもたないということにはならない。虚空が一切のものと結合していなくても、一切のものが虚空をもたないということにはならないと同様です。したがって虚無論者の主張に帰着するという論理的欠陥は生じません。」
 】
『ウパデーシャ・サーハスリー』 シャンカラ著 前田専学訳 岩波文庫 p.230〜236


.結論

 以上のような考察から、イデアとかアートマンとか呼ばれる超越的世界は、我々この世の者の五感には虚空とかしか呼びようのないものでも、現に存在しているリアリティーのかもしれない。
現在の我々が日常的に認めるリアリティーは、五感を通して認識される19世紀的“自然科学”の確固たる物質世界のみに信を置いている。しかし、それだけではなく、自分自身よりも身近で、しかも、未だに認識されざる未知の領域との相互作用を常に無意識に行いながら、本来、我々は生きているのかもしれない。そして、この認識不可能な領域を、五感に拠らずに直接知ろうとしてきた人たちがいたこと、そして、それを知った人がいたこともまた事実だろう。
私も彼らの体験に憧れ、「汝自身を知れ」という言葉に憧れて、10代の頃から神秘家と呼ばれる人たちの本を熱心に読んだ。禅や念仏の修行もした。インドに行って瞑想もした。また、カリフォルニアでドラッグも体験した。しかし、ただ著作を読んだだけでは彼らが何を感じ何を思考していたのか本当のことは直接知ることができないように、どんな方法によっても彼らと同じ体験はできないのではないかと最近は感じている。(もし彼らと同じ体験をしたというなら、それは自己暗示による体験のコピーなのかもしれない。)
私はかつて言われたことがある。「きみの考えはネオ・プラトニズムに似ている。しかし、それは現在ではまったく無意味な思想だ」と。そのとき私は、その大学の先生が何を言わんとしているのかまったく分からなかった。しかし、今では、少し理解できるような気がする。つまり、現在、そのような超越的イデアのような“実体”が存在するという哲学は流行っていない。そのようなアプリオリな実体を現実の世界の外に想定する思想を信奉するのは危険だという話だったのかもしれない。もしそうなら、単なる思想の流行の話だ。しかし、ファッションと同じように思想の流行も回帰するのではないか。現在、臨死体験がクローズアップされる中で、もしかしたら、この世とは別の世界があるという可能性を信じる哲学が新たに流行しないとは誰にも言えないだろう。物質の法則に全てを還元できるという一元論は、すでに機能しなくなっている。したがって、一様な世界の単なる差異によって物事を説明しようとする哲学は早晩行き詰まり、超越界の実体的存在を証明する哲学が復活してきても不思議はない。
肉体の生の期間の“現実”を、オルダス・ハクスリーの言う〈偏在精神〉からの阻害と感じる、現実とは顛倒した認識。それは、もしかしたらプラトン主義者に端を発するのかもしれない。しかし、“脳に閉じ込められた二元的人間”は、未だに物質の領域しか知らないが故に、“心の領域”を、「啓示」という宗教的通路を通してのみ可能となる「奇跡」として受け止め、肉体の生の期間の“現実”を、常に〈内なる光〉に輝く〈非自我の自己〉を渇望する〈孤独な巡礼者〉として〈私の抱擁に窒息しかけた〉言語的存在として思考し続けている。そして、心は常に“現実”の社会の中で既に失った“楽園”を求めている。
肝炎、バセドウで、初めの授業に出られなかったが、私は、先生のプラトン主義の哲学の授業を受講することによって、改めて、自分は実体的イデアの世界に惹かれていることを認識した。彼らの言葉を読むと、背筋に電流が走るのだ。だから、ネオ・プラトニズムがいくら時代遅れで無意味な思想だと耶癒されても、私はそれが好きであることはどうしようもないとハッキリと認識した。それだけでも、大きな収穫だったが、そればかりではなく、超越界は理性の及ばない世界であり、宗教のように信じるしかないものかもしれないが、もう一度、今度はデカルト的な徹底した懐疑と共に、感覚的にではなく、もっと知的に日常的にそれを追求してみたいという意欲が沸々と湧いてきた。もちろん、それが危険であることは既に体験済みである。しかし、もう一度、一者に近づいてみたいという意欲を改めて思い出した。


引用・参考文献****************************************

『哲学の原風景』 荻野正弘著 NHKライブラリー
『哲学の饗宴』 荻野正弘著 NHKライブラリー
プロティノス全集』第一巻 中央公論社
マインズアイ』コンピュータ時代の「心」と「私」 上下 D・R・ホフスタッター、D・C・ベネット編著 坂本百大 監訳 TBSブリタニカ
『脳と心の正体』 ワイルダーペンフィールド著 塚田裕三 山河宏 共訳 文化放送
『脳は心を超える』 ジョン・C・エックルス、ダニエル・N・ロビンソン著 大村裕 山河宏 雨宮一郎訳 紀伊国屋書店
『脳をあやつる分子言語』 大木幸介著 講談社
『サイエンス・ニューストーリー』 ロバート・M・アウグロス、ジョージ・N・スタンシウ著 山内昭雄監訳 今忠訳 丸善株式会社
『かいまみた死後の世界』 レイモンド・A・ムーディー・Jr著 中山善之訳 評論社
『ウパデーシャ・サーハスリー』 シャンカラ著 前田専学訳 岩波文庫
『知覚の扉』 オルダス・ハクスリー著 河村錠一郎訳 平凡社ライブラリー738