カフカの『城』

第二文学部表現芸術系専修 1年生のときのレポートです。


 カフカの『城』 (不条理を測量する)



 物語とは何だろうか?
 物語は、始めの出来事から次の出来事へと時系列的に次々と出来事が展開されていき、最終的に納得できる最後を向える。始めがあって終わりがある。起承転結のあるストーリーがもっともわかりやすい物語だと言えるだろう。しかし、どんなストーリーにしても、ひとつの出来事から次の出来事に移っていくとき、その間には読者に納得できる必然性がなければならない。まったく無意味にひとつの出来事から次の出来事にストーリーが展開されるとしたら、この物語は読者にとって理解不可能なものになってしまう。物語を分析すると、ひとつの出来事と次の出来事との関連の連鎖と見ることができ、時系列的なベクトルは、この出来事の関連の連鎖が時間軸に対して結果的に順番に並んでいたにすぎない。したがって、時系列の順序が狂っていても、出来事の関連性の連鎖が、読者にとって納得できるものであれば物語は成立する。

 しかし、『城』のストーリー展開は、出来事と出来事の必然的連鎖として分析することを拒んでいるように見える。なぜなら、このストーリー展開における出来事と出来事を結び付ける”必然性”そのものが、読者にとって”必然”であるのかないのかを、そもそも著者は問うているように思えるからだ。読者にとって”必然”の根拠となるものは、たいてい無自覚な”常識”である。しかし、この”常識”そのものが”不条理”であったならば、物語が展開する”必然性”は、そもそもどこにあるのだろうか? この物語は、まるで「城」という不条理の回りを堂々巡りするかのように、ストーリーそれ自体が展開することを拒み、そもそも読者が想定するであろう事象の必然性そのものを疑い、出来事の成立を解体し、無自覚な”常識”をあざ笑っているかのようである。この『城』の物語の中では、ストーリーを展開させていく根拠となる”常識”は、そのまま「城」の中でしか通用しない”非常識”そのものであり、主人公”K”は、常にこの”城の常識”を”不条理”だと感じている。

 『城』のストーリーを展開させているのは、具体的には、主人公”K”と、この村の住人であるその他の人々との会話であり、この村の住人は全員、”不条理”な”常識”に支配されているのである。”K”は、会話を通じて、この”不条理な常識”そのものを論駁し、そのことによって「城」そのものに近づき、”測量師”の職を得ようと試みるのだが、はたして、村の住人にとって”常識”であることの根拠、また”K”にとって”不条理”であることの根拠は、いったいどこにあるのだろうか?

 『城』のストーリーは、どこまで行っても抜け出せない、まるで鏡に映った自己言及ループの迷宮のようだ。さらに、主人公”K”とカフカ本人が、パラレルに向かい合った鏡に永久に自分自身の鏡像を映し出しているように思えてならない。どうやら、この物語を理解するためには、カフカ自身を理解しなければないようだ。

 カフカがこの作品にとりかかったのは、1922年1月、死の2年前にあたるという。かねてから結核だったカフカは、勤め先から休暇をとって、チェコポーランド国境の高地にあるサナトリウムに滞在して、『城』の執筆を始めた。そして、6月には長く勤めてきた労働者傷害保険協会を退職した。カフカがこの世を去ったのは、それから2年後の1924年6月3日。41才だった。

 「城のモデルはどこにあるのだろう?-略-カフカの父の生まれた村は「ヴォセク」、あるいは「オセク」とよばれていた。カフカは幼いころ、父につれられて訪れたことがある。ボヘミアの森にちらばったシミのように小さな村であって、おおかた自給自足しており、よそ者を受け付けない。城の持主も調べつくされていて、ボヘミア貴族の荘園にあたり、村の森も畑も土地も、いっさいが城に属していた。城の役人たちが高台に住み、下の村に使用人や農夫が住む。さらに住人の家の位置によって、身分的な区別があり、チェコ人と共存してユダヤ人集落があった。おりにつけ父から聞かされていたところが小説にとりこまれたというのだ。」(カフカ小説全集3 城 池内紀 訳 解説より)

 この閉鎖的な城を中心とした村は、まるでこの村の本当の姿を隠すかのように深い雪で覆われている。Kがこの村に到着したのは、夜遅くなってからだった。カフカは、結核の療養のため長く勤めてきた”官吏”の職を辞し、雪のふる北の高地のサナトリウムにやってきた。結核の療養のためなら、暖かい南のサナトリムを選んでもよいはずだった。しかしカフカはあえて寒い雪の降る北の地方を選び、そこで創作に没頭する。カフカにとって結核という病気は、職を辞する格好の口実になったと言えるのではないだろうか? カフカは長らく夢見てきた小説に没頭する自由を、結核の悪化によってとうとう獲得したことをなによりも喜んでいたのではないだろうか。本来は結核の療養のための休暇でありサナトリウム滞在のはずだが、カフカの頭の中には、すでに『城』の構想があったにちがいない。そのため、雪に覆われたこのサナトリウムを療養の場としてではなく、はじめから創作の場として選んだのだろう。しかし、そこはまた、強権的でカフカと折が合わなかったといわれる父親の故郷を思わせる村でもあった。カフカはその地が人生最後の滞在場所となることを自覚していて、子供の頃父に連れて行かれた父の古郷に似たその村を選んだのだろうか?

 夜おそくこの村に到着したKは、測量師として、この村を測量するために城主から雇われてやって来たのだった。

 この雪深い村は、いろいろなメタファーとして解釈できるだろう。しかし、間違いなく第一に、『城』という権力に閉ざされたこの雪深い村は、官僚社会、それもコチコチの官僚主義が支配する目的と手段を転倒させた不条理な規律社会の典型であろう。それは、そのままカフカが長年勤めてきた”労働保険局”という官僚機構そのもののパロディーであり、ひいては、あらゆる法治社会において似たり寄ったり腐敗し、形骸化している官僚制度という不条理な権力のリアルな実体の告発であり、さらに後のナチスという巨大な非人間的官僚機構の予見でもあると思う。

 この『城』で働く役人は、いつも眠ってばかりいて、手続きのための膨大な文書に埋没している。しかし、本来無意味であるはずの文書の作成と整理を忠実にこなす例外的な勤勉者がいて、そうした者が優秀な役人とされる。小説の中に出てくるソルディーニは、最も優秀な役人の一人だ。

 「彼の部屋は、壁という壁がうず高く積み上げられた書類束の柱でおおいつくされているということです。それが、彼がそのとき仕事に使っている書類ばかりなのです。しょっちゅう書類の束を引きぬいたり、さしこんだりし、しかも、万事が非常な早さでおこなわれるので、書類の柱がたえずくずれ落ちます。そして、ひっきりなしにどさりとくずれるこの物音が、ソルディーニの事務室の特徴になっているんだそうです。」

 しかし必要な文書を捜しあてたとしても、「この場合決定をくだしたのはどの役人であるのか、また、どういう理由からであるかということは、どうにも確かめようがありません」という無責任体制。実際、Kは測量師としてこの村に雇われた。だから、この雪深い小さな村にやってきた。しかし、この村の役所は、Kを測量師として雇ったおぼえはないと主張する。

 ところがその後、Kは、役所のX庁長官であるクラムという人物から手紙を受け取る。

 「Kは伯爵家の勤務に召しかかえられることになった」「Kの直接の上司は村長である」「Kは村長に対して報告の義務がある」「Kとクラムの間の伝達者として、バルバナスを置く」そして「Kの動静を常に監視している」と書いてあった。

 Kは、この村の村長の所に行き、ことの真相を確かめるのだが、次のような村長の答えは一体何を意味しているのだろうか?

 「あるのは監視機関ばかりなのです。むろん、そういう役所は、ふつうの意味でのミスや手落ちをさがしだすことが目的ではありません。というのは、間違いなど、起りっこないからです。それでも、あなたの場合のような手落ちがあったとしても、いったい、それが手落ちであるなどとだれがはっきり断言できるでしょうか」

 Kは、ただ、この村を測量すること、すなわち、自分の仕事をすることだけを目的に行動する。しかし、Kは最後まで測量師として仕事をすること、すなわち、この村を測量することができない。不条理を測量すること、それは、不確定なものを確定することが不可能なように、始めから決してできないことなのかもしれない。そして、この村の不条理に洗脳された人々は、少なくともそのことだけは知っているという点で、Kよりも正気なのかもしれない。いくらKが手を尽くしても、この物語は、Kがこの村に到着した時点から少しも前には進まないのである。

 Kは、フリーダという女性と恋に落ちる。フリーダは、彼に手紙をよこしたX庁長官クラムの愛人である。彼女は以前、橋屋の女中だったが、自分の地位を上げるために、クラムの愛人となった。この村では、役人の愛人になることを誰も拒むことはできないのだ。アマーリアという女性は役所から来た使者ソルティーニの誘いを拒んだが故に、彼女の父は職務を剥奪されてしまう。クラムのような特別地位の高い役人の愛人ならば、この村では誰からも一目置かれる身分に向上したことになる。そして、この村では、だれもが他人の地位を知っており、身分意識に支配されているのだ。

 今の時代、こんな村は、非現実的で滑稽にすら感じる。しかし、例えば日本だったら江戸時代、身分制度が定着した社会では、人々はこの物語のように屈折した身分意識の”常識”の下に暮らしていたのではないだろうか。また、カフカの死後訪れるナチスのヨーロッパ占領時代、ナチの役人の愛人になることを強要されたら、誰も拒めなかったにちがいない。また、ヨーロッパに暮らしていたユダヤ人はどうだったのだろうか?信教の自由が許されたカフカの時代にあっても、身分的賎民意識を常に持たされていたのではないだろうか?そう考えると、この堂々巡りで滑稽で不条理な物語も、なにか物悲しいリアリスムの諦観を感じさせる。

 Kと恋に落ちたフリーダは、駆け落ちさながら酒場をやめて、Kと一緒に村長から紹介された小学校の小使として教室に住み込む。Kは、フリーダと結婚するためにもクラムと会って話しをつけようと思い、なんとか面会する伝手を探そうとするのだが、愛人に会いに縉紳館にやってきてビールを飲んで眠っているクラムを、覗穴からそっと盗み見ることしかできない。クラムのような地位の高い人間に直接面会することなど、この村では非常識極まりない不可能な話しなのだ。

 しかし、物語の後半、Kは、とうとうクラムの第一秘書に面会することが許される。第一秘書エルランガーが縉紳館の15号室に滞在するのは明日の午前5時までで、それに間に合うようにすぐに来なければならないという伝言を、バルバナスは「成功したんです」という言葉と共にKに伝えた。Kは、とうとうクラムにつながる有力な役人と直接面会することが許されたのだ。ところが夜中、面会のために縉紳館にやっと入ることを許されたKは、間違った部屋に入ってしまい、そこに居たフリードリッヒの秘書ビュルゲルにつかまって長口舌を聞かされるはめになる。そして、そこでKは、ぐっすり眠ってしまう。やっとのことで、とうとうエルランガーに会うことができるが、Kは眠くて疲れて起きていられない。
 あの鷹のような目をした頭脳明晰なカフカ自身、最後は、Kのように病に疲れて、どうしようもなく眠くて、朦朧とした非現実状態でこの小説を書いていたのかもしれない。それは、役所という官僚機構のどうしようもない無意味さに辟易し、なかば意識を失って役人のたわごとを聞いているKの、やりきれなさと共振する。

 エルランガーはKに言う。

 「この家の酒場に、もとフリーダとかいう女が勤めていた。」「このフリーダは、ときおりクラムにビールの給仕などをしておったのです。いまは、別の娘が酒場にいるようです。もちろんこんな異動なんか、どうだってよいことです。おそらくだれにとってもそうでしょうが、クラムにとっては、確かに問題にもならんことにちがいありません。」「にもかかわらず、わたしたちは、クラムができるだけ気持ちよく仕事に専念できるように見張っていなければならない義務があるのでして、クラムにとってはなんの障害にもならないことであっても−」「ですから、フリーダという女は、即刻酒場にもどらなければならないのです。」

 すでに早朝の5時になっていた。

 「自分の肉体を頼りにできるという自信があったおれ。そのおれが、たかが二、三日の不健康な夜と不眠の一夜に耐えられないとは、どうしたわけだろうか。ここでは、どうしてこんなにどうにもならないほど疲れてしまうのだろうか。」

 エルランガーの命令は、Kの上を素通りしていった。「それをだまらせて、こちらの声を聞いてもらったりするには、彼の身分があまりにも低すぎるのだった。」

 Kは縉紳館の酒場で目を覚ました。
 
「あなたは、まったくなにものでもない。一文の値打ちもない、まるっきりの無なのよ。あなたは測量師でいらっしゃる。これは、おそらくなにほどかのことではあるでしょう。
つまり、あなたは、なにほどかのことを習って身につけていらっしゃるわけね。でも、それでもってなにもすることができなければ、やっぱりまるっきりの無だわ。」

 フリーダの後釜に座った、酒場のビール酌みの小娘ペーピーに、Kはさらに言われた。
「なぜあちこちを歩きまわることによってフリーダのために戦っているのだというような見せかけをなさったのですか。まるであなたは、フリーダと関係することによってはじめて自分の無価値さを知り、フリーダにふさわしい人間になり、なんとか早く出世しようとし、いろいろ不自由な目に会わせたつぐないはあとで存分にできるからというので、しばらくはいっしょにいることを断念していらっしゃるみたいですわ。」

 「なんという乱暴な空想をしているのだ、ペーピー。」「きみの言葉で言うと、フリーダが助手のひとりと逐電してしまったというのは、まちがいない。」「また、フリーダがぼくの妻になるようなことも、実際まずありえないだろうね。」「ぼくは、彼女がぼくのところにいてくれたからこそ、きみに笑われたように、たえず外をほっつき歩いていたのだよ。いまは、彼女が出ていってしまったから、ぼくは、なにもすることがなくなり、疲れはて、ますます仕事がなくなってくれたらよいと願っているのだ。」



 「わたしたちのお部屋のたったひとつの飾りは、体操用具ね」
 そう言って、涙を浮かべたフリーダが、なくてはならない白いテーブル・クロースを教卓にひろげ、花模様のコーヒー茶碗をならべ、さらにパンとベーコン、おまけにオイル・サーディンの缶詰まで出してきて整えてくれた小学校での最初の夕食。それすらも2人のおせっかいな助手に邪魔され、Kの眠った夜中、助手の1人とフリーダは関係してしまったのである。

 こうしたカフカの執拗な自虐性こそ、この終わらない物語を、永久に特異なものとし続けているのだろう。そして、私は、彼が死んだ41才を1年過ぎた今も、滑稽で物悲しいこのリアリストに何故か強烈に共感する。


(引用は、「城」 新潮文庫 前田敬作訳 を使わせていただきました。)