ベジタリアンと禁酒

  
実は、6月の終わりから7月の初めにかけて、フィリピンに行ってきました。
瞑想のリトリートに参加したのです。
朝4時に起きて瞑想をし、ベジタリアンの食事をしました。
初心者向けのリトリートでしたので、瞑想ばかりでなく、講義や、体験学習のようなものもあり、リクリエーションもありました。
私はどちらかというと瞑想三昧を期待していたのですが、逆に、大勢の人の前で歌ったり、粘土を作って皆の前で発表したり、私の苦手な”社交的”なワークが、きつかったです。
ただ、そのりトリートで、私は、忘れていた”神”を思い出しました。
そのことについて書くと長くなってしまいますので、機会がある度に繰り返し自分でも考え、シェアしたいと思っているのですが、目から涙があふれ落ちてくる体験でした。その体験のなかで、次々と今までの、神と意識的無意識的に持った関係のことを思い出しました。
私は、3つの頃から近くの教会に通っていて、物心ついた頃から”神”に触れ合っていました。
その頃の私は、光り輝く世界に、何の疑いもなく生きていたのを覚えています。
それから、だんだんと”神”とも、”幸せな光”とも、遠ざかって行き、中学に行く頃になると、逆に、キリスト教会を嫌悪するようになり、それから、時代もカウンター・カルチャーの時代でしたから、インドのグル思想に傾倒していったのですが、弟子入りしたグルは、自由奔放を弟子に説いていました。それは、ある意味で、宗教的な悟りの最後の結果かもしれませんが、十代だった私は、なんでも好き勝手でいいのだと誤解し、逆に派目を外して滅茶苦茶をやりました。インドで初めてドラッグを体験し、その効能もあったのかもしれません、(その他にも、アシュラムでやっていた過激な瞑想や、その他のカルチャーショックも影響しているのかもしれませんが)、ある夜、突然、”至福”を体験しました。寝ていて、急に幸せの絶頂になり、幸せのエネルギーの噴水に吹き上げられて、ベッドの上に浮かんでいたいたのです。これ以上”一滴”でも(そのとき、なぜかそう思いました。これ以上一滴でもと・・)、より幸せになったら、あまりの幸せに耐えきれずに死んでしまうと思ったほどの”至福”でした。それ以上の感覚的なBLISSはそれ以来体験したことはありません。17才の私が人生の絶頂だったのかもしれませんが、逆に、ドロップアウトした最低の生活の始まりでもあったのかもしれません。もし、インドから帰って来て、彼女に出会わなければ、私の人生はぜんぜん違っていたいたでしょう。”神”は、いつでも私のそばにいて援助してくれていたのだと思います。インドから帰ってきて、神のような人に出会いました。その人が山田さんです。彼女から、”神の言葉”を聞いたのですが、私がそれが神の言葉だと初めて自覚したとき、神とは、なにか遠くにある宇宙を創造した法則とかそういう冷たい”科学的、数学的”なものではなく、人間の心にも感情にも直接響いてくる心を持った暖かい存在だということを知りました。そのときも、涙が滝のように流れました。
それから、また、すっかり”神”のことを忘れていました。
そして、なにか、だんだん飢えのようなものを感じ、最近また瞑想を始めました。瞑想を始めながら、本当の瞑想とはなんだろうかと問い続けました。天の声を聞きたいと思い、願をかけました。
その成果があって、導かれたのかもしれません。フィリピンで期待していた以上の体験をすることができました。
帰ってきて、肉や魚、卵などを食べなくなくなりました。いわゆるベジタリアンです。酒もやめました。
いつまで続くかわかりませんが、今は、それが続いています。
ベジタリアンにした理由は、帰りの飛行機の機内食を食べたときでした。なぜか、目玉から涙が溢れて来て、食べることができませんでした。胸から込み上げてきて、目玉を通って流れ落ちる涙の意味は、きっと、「食べさせてくれてありがとうございます」ということだったと思います。ありがたい、自分の肉となり、血となるために、生命をいただいているというありがたさです。そうなると、生きた動物を殺して食べることはできないと感じました。もちろん自分が殺したわけではありません。だから、もっと食べられないのです。広い草原で走り回っている牛を殺して食べるのならまだしも、囲いの中で、餌だけを与えられて太らされ、殺されるためだけに生かされていた牛や豚や鳥。それらの命のことを”想像”すると、かわいそうで食べられなくなりました。以前の自分を考えると、まったく考えられないことです。
でも、ある意味で、180°見方が変りました。以前、自分、自分と思って行動していた自分は、本当は、制御すべき自分だったのだと気付きました。ある意味で、禁欲的になったのかもしれません。禅で言えば、やっと”牛を見つけた”段階なのかもしれません。これから牛を手なずけ、牛に乗らなければならないのでしょう。
ところで、”神”のことを書きましたが、これは、誰かに言われた神でも、どこかの宗教の教義の神でもなく、私が感じた、考えた、”神”です。そして、宗教は、誰かに帰依したり、どこかの団体に属したり、そのドグマを信じたりする必要はまったくないと思っています。自分が自分自身の神を発見すればいいのです。ですから、私の宗教は、名付けて”オレ教”です。
”オレ(俺)教”について、かつて山田さんからも言われたことがあります。「自分が自分の教祖だと言えばいいじゃない。なぜ誰もそう言わないの?」って。
それから、私の前世を見てくれた人も言いました。その人は、私は教祖になると言ったのですが、「じゃあ僕は何教の教祖になるの?」と訊くと、「オレ教」と言いました。そのとき、なるほどと思いました。
だから、みんなが”オレもしくはワタシ教”をつくればいいのだと思います。そして、他人のワタシ教を決して否定してはいけません。それぞれが、それぞれの神なのだから。
長くなってしまいましたが、気付いたときに、オレ教について、書いてみたいと思います。
興味のない人は、読まないでください。