革命の日

 
朝の4時。
明日は祝日で休みだから問題ないが、やっぱり寝ようとしないと眠れない。
今日はパリ祭。バスチーユ襲撃の日。
最近、映画でレミゼラブルを借りて見たが、感動した。
ところで、明日の”海の日”っていったいなんの日なのだろう。
日本の明治維新なんて、天皇の御旗を掲げてのインチキ・クーデターだったから、
7月4日とか7月14日みたいな本当のレボリューションの日はない。当然だ。
その代わりに、”海の日”がある?
よくわからない。この西洋コンプレックスの猿まね国家。
 
僕は本当に日本が好きでない。
口先三寸で”現実主義”とか言うバカばかりで、
本当の”理想”を語る人がいない。
まるで、そんなことを言ったら恥ずかしいみたいに。
みんな人の顔をキョロキョロ見回して、だいたいの妥協点を勝手に腹で探って、初めから反論されないことを前提にしてしか発言することしかできない。
こんな慣習の国では、人はまともに議論をすることもできないし、理想を追求したり、それを実現したりするのはもっと不可能なことだ。
だから、芸術だって、そこそこの例えば”写実”とかの技術追求重視とか、”アニメ”とかの大衆迎合アートしかできてこない。
 
そもそも、憲法だって、西洋の近代革命がオリジナルなんだから、猿まね日本国家が21世紀になってオリジナルな憲法を作ろうなんて言っていること自体が時代錯誤というか、近代国民国家の意味をそもそも履き違えている。
西南戦争で西郷が勝っていたら、日本も本物の近代国家になれたかもしれない。でも、結局は、強い者勝ちで、西洋猿まね近代国家になって、近隣国の植民地支配を始めた。まるで自分たちが西洋人であるかのように錯覚して。近代国家を作った西洋キリスト教国の自然科学、近代哲学を創造した白人に異常にへりくだってコンプレックスを抱き、一方で日本文化のルーツである近隣の黄色モンゴロイドを蔑視して。自分がイエロー・モンキーであることもすっかり忘れて。異常に蔑視し蔑み差別した。なにしろ、自分を映す鏡は、すっかり汚れていたから。それとも自分の目が曇っていたから。曇った鏡に映る自分を見る曇った目は、自分がイエロー・モンキーであることに異常な劣等感を抱いた。さらに、自分の文化も、結局、中国、朝鮮半島からの輸入品であり、自分たちのオリジナルでないことに気付いて唖然とした。てして、自分のオリジナルを本来の自分とは違うところに捜し求め始めた。それが結果的に神道にそのルーツを求めて、天皇中心の神話をファンデメンタルにドグマ化した原理主義者が国粋主義的になり、そうした仮初めの”理想国家”の思想に洗脳されたいわゆるエリートたちが天皇の軍隊を指揮し始めた。そして結局は、統帥権天皇にあると言って、だれも神聖にして冒すことができない天皇の戦争を止めることができることができなくなってしまった。ところが、そのころの日本人の方が”精神性”があり、”立派”だったと言って、教育勅語を復活させようとしている時代倒錯者も最近目立ってきている。もちろん、戦時中にいじめで自殺する生徒はいなかっただろう。アニメにうつつをぬかし、コスプレをする若者もいなかっただろう。でも、それが”立派”で”精神性”がある若者だと、いったい誰が言えるのか。いったいそのような価値観を誰が定義したのか。それは、一部の「自分で自分を立派だと思っている」本当はどうしようもない、ノスタルジーに浸ることしかできない”既に過去に死んだまま生きている痴呆”に過ぎない。時代は前進している。退行させたがっているのは、未来を信じられない意気地無しか、先に進む勇気のない憶病者か、過去の栄光にいつまでもぶら下がり、自分がよほど偉いと勘違いしているどうしようもないバカだけだ。
 
なにを書いているのかわからなくなってきてしまったが、そうだ、今日は7月14日だった。そして今はその翌日の朝の5時だ。こんな僕にだって、眠剤を飲んでも眠れない理由があるのだ。
でも、明日は、よくわからない”海の日”というものでお休みだから、助かる。
できれば海を見に行きたい。東京湾とか、江の島なんかには行きたくない。できれば日本海側で、誰もいないような海。でもそんな海、東京の近くにはないな。石垣とか西表とかに行ったときは、本当に誰もいない砂浜があった。真っ白い星の砂に、ブルーに透き通った海水がゆっくりと流れていた。もちろん小さなさざ波を立てて、浅瀬に波が打ち寄せては引いていた。マングローブに覆われた夢の中のようなそのような海辺が近くにあったら行ってみたいが、でもないから、明日はたぶん昼過ぎまで寝ているだろう。クーラーを最強にして。