明日もわからない

 
とりあえず、明日もわからない自分になれたから、今の僕の状態はOKになった。
 
そうじゃないと、僕はだめなんだ。満足できない。
 
同じ映画のシーンを何度も何度も見てたら飽きるだけだろ?
 
次のシーンがどんな展開になるのかわからないから、観客はスリルとサスペンスを感じてストーリーに没入する。
 
どんな結末が待っているのかわからないから、一瞬一瞬のプロセスそのものが重要になってくる。
 
分からないのはエンディングだけじゃなくて、いったい僕っていうキャラはどんな役回りを背負わされているのかも、演じている僕にすらわからない。
 
なぜなら、誰かが書いた脚本なんてどこにもないんだから。
 
誰かに演出されている訳でもなく。
 
誰か観客に向けて演じている訳でもない。
 
この僕のプライベート映画は、どこにも上映されないだろう。
 
アカシックレコードには全ての行為のみならず、感情、思考、推論、想像、人間の行為の全てが記録されているというが、そのレコードを再生して、スクリーンに映して、映画のように楽しむことなんて、少なくとも今のスピリチュアル・テクノロジーではできない。
 
僕という登場人物は、僕の人生にとっては主役かもしれないが、Aさんの人生にとってはただの行きずりに出会った一人かもしれないし、Bさんの人生では、名前も知らないエキストラの一人かもしれない。
 
そして、僕が主人公の僕の人生映画だって、はたしてハッピー・エンドかバッド・エンディングかさえもわからない。
 
落ちぶれて、刑務所で狂い死にするかもしれないし、本当の愛を体験しながら、如来に迎えられてこの世からの解脱を体験しながら死んでいくのかもしれないし、THE ENDになるまでの、これからの人生だって、いったいどうなってしまうのか、この僕にも分からない。
 
でも、だからこそ、リスクを冒す。
 
リスクを冒すことは、人生を豊かにすることだ。
 
富や名声で豊かにすることではなく、冒険と賭けで命のリスクを冒し、生きているというスリルとサスペンスを味わう人生。
 
運命を担保にして、勇気と直感を信頼し、愛と美に命を賭ける。
 
失敗したら野垂れ死に。成功したら・・? たぶん、至福。