恍惚の哲学堂と最後のペテロのフランチェスコ

 
最近は、けっこう健康的な生活をしている。
ジムに行って汗を流したり、毎日曜日は呆けてしまった母親を散歩に連れて行っている。
近くの哲学堂がいつもの散歩のコースだ。
その度に、イエス仏陀アブラハム、イクナートン、老子、それから、ダルマやフランチェスコ銅像、その他、世界中の哲人たちの記念碑に遭遇するのだが、呆けた母も、「こんなにいい所が近くにあるなんてなんて幸せなんだろう」と言う。
だいたいいつも一番日当たりのいいお決まりのベンチに腰掛けて休憩するが、以前の母だったらなにかつまらないことをしゃべって静寂をなんとか埋めようと余計な気を使っていたのだろうが、呆けてしまった今はまったくの無言で日の光を浴びている。そしてなぜかいつも聖徳太子銅像の前で手を合わせて拝む。その一角は、今上天皇に良く似た貌の聖徳太子とハムラビ、それからユスティアヌスが立っている所で、僕が前のブログで真理に基づく法を作ろうとした人たちと呼んだカテゴリーで、キリストや仏陀のように、真理そのもになろうとした人たちより格下に思えて僕は拝んだりはしないのだが、何故か聖徳太子の像だけが一番高い台の上に設置されている。だから呆けた母はそれを下から仰ぎ見るものだから、思わず拝まずにはおれないのだと思う。本当に聖徳太子が実在した人物なのかどうかはなはだ疑問だが、それは老子だってそうだ。が、確かにそのような人は実在したのだろう。もう一つ別の一角にはダルマとガンジーとフランチェスコが同じ方向を向いて立っている。彼らは自分を無にして真理に自分を捧げた人たちだと僕は思っている。最近ローマ法王になったフランチェスコ1世は、聖フランチェスコの生まれ変わりだと言われている。そして、マスター・クートフーミのウォークインだともネットで言われている。だとしたら、是非、あの豪華絢爛なバチカンに所蔵されている美術品を売って、貧しい人たちに施してほしい。できることならひとつ残らず全部。あの金銀財宝、美術品、全部。だって、あれらの財宝はいったいどこからかすめ取って来たものだろうと、バチカンに観光旅行に行ったとき僕は思ったものだ。金持ちが天国に行くのは駱駝が針の穴を通るのより難しいとイエスは言ったと聖書に書かれている。だったらなぜその教えに従わないのか。ローマ法王は針の穴でも通れるほど特別な存在なのだろうか。たしかあの場所は、もともと聖ペテロが埋葬されている場所に建ってるらしいが、確かペテロは逆さ貼り付けの刑にされて死んだはずだ。その墓地にミケランジェロが裸体の群像の大壁画を描き、世界の美術品がコレクションされ、今ではローマ人ペテロが(最後の)法王になった。聖フランチェスコを描いた映画、ブラザーサンシスタームーンでは、無一文のフランチェスコが裸足でバチカンまで歩いて行って、法王と接見するシーンがあるが、もし、今度の法王フランチェスコ1世が聖フランシスの生まれ変わりであるのなら(そして最後の法王、ローマ人ペトロであるなら)、バチカンの財宝を全て売り払って貧しい人に施すほどの過激さを十分持ち合わせた燃えるような信念の人であるはずだ。まあ、こんな私がこんな誰も読まないブログでいくらこんなことを言って新法王をけしかけたところで、蚊が鳴いているくらいのことでしかないのだが。まあ、そういうことを書くの楽しいから書いている。
呆けた母の話しだったが、ときどき、はっとするような真実を突いたようなことをなんの脈絡もなく突然言うので、びっくりすることがある。哲学堂に流れる川を見て、「キリスト教は、水がないと成り立たないのよ」なんて言うので、確かにそうだなと思った。セメントで固められた、清らかな水晶の流れとはとても言い難い川の流れだが、今は下水などは流さなくなったのだろうか、カモが泳いでいたりする。バプテスマのヨハネが川で洗礼をしている所にイエスが行って、洗礼を受けた話は有名だが、イエスヨハネの弟子になったわけだ。そのヨハネは私はあなたの靴の紐をほどくことさえできないと断ったが、イエスは彼から水による洗礼を受ける。そして、やがてイエスは炎によって洗礼を授けるだろうとヨハネは予言する。そのとき鳩が天から上り下りするのを見る。その鳩が精霊であり、バチカンにも描かれている。公園にも鳩が群れていて、今ではどぶ川とは言えなくなったが、それでもまったく風情のないコンクリート底に水が流れている川を見て、どうして母はキリスト教を思い出したのだろうと不思議に思った。哲学堂は、そんなインスピレーションが突然閃くような、不思議な場所でもある。
呆けた母親は、僕と哲学堂を散歩して、とても幸せそうなのである。