絵を展示していて感じたこと

 
阿佐ヶ谷の喫茶Cobuでの絵の展示の期間が半分過ぎました。
幾人かの友人の方たちに来ていただき、ありがたく思います。
私は、土日の3時過ぎと平日は6時前後しか行けないため、ほとんどどなたともお会いできていません。
絵を展示しての正直な感想を書いておこうと思います。
 
芳名帳を見ると、好評な絵があります。
絵には全部題名が付けてあるので、気に入った絵をノートに書いてくださる方が多いのです。
そして、好評の絵を見ると、だいたい、私が短時間で、だいたい一発で書き上げた絵が多いことです。
一発という表現もあまりよくないのですが、数十分、数時間で一回で書き上げた絵がだいたい好評のようです。
ところが、絵というのは不思議なもので、何度、いや、何百回描き直しても完成しない絵があります。
”夜明け前”と題を付けたF6号の絵は、大げさでなく何百回、何千回も上から書き直した絵です。
そうなると、もう絵具が上に乗らなくなります。
それでもだめで、試行錯誤した末に、最後のひと筆で完成した絵です。
私としては、このような絵の方がぜんぜん愛着があり、なかなか他人には描けない”いい絵”だと自負しているのですが、あまり理解されないようです。
当然、油絵具がたくさん層をなしているので、カンバスは重たくなっているし、使った絵具も多いから、たぶんチューブで何十本も使っているはずだから、この絵に投資した金額も高いのです。
だからといって別に、絵というのは、材料の金額の総計で価値が決まる訳ではないのですが、作者としては、あの絵には、下にいろいろな絵が描かれているのを知っているのです。
最後は風景になりましたが、何層にもわたって、人物が描かれていました。絵具の色を見るのではなくて、絵の表層の凸凹、つまりマチエールを見ていただければ、なにが描いてあったのか少しは想像できるかと思いますが、そこまで私の絵を凝視して鑑賞してくれる人は皆無だと思います。
(私は、油絵はマチエールだと思っているのです。マチエールだけはごまかせません。)
こんなことを言うと失礼かもしれませんが、ほとんどの人は私の絵を見ていないことがわかります。
一瞥しても、すぐに目をそらして、絵などに興味がまったくないかのようです。
私が喫茶にいて、コーヒーを飲みながら来る人を観察していると、ほとんどの人がまったく絵を見ていないことがわかります。それは、わざとそうしているのか、それとも、たぶん面倒なことを無意識で避けているのでしょう。能動的に視覚を働かせるというのは、誰にとってもけっこう面倒なことなのです。
自分としては、絵を描いているときに、かなり集中して能動的に視覚を働かせています。美を発見しようとして視覚を働かせるのです。能動的にならない限り、美というのは発見できないものでもあります。
 
私の絵について言っていることは、ほとんどの人が何を言っているのかわからないと思うのですが、絵を描いている人ならきっとわかるだろうなと思います。
たぶん、今回展示した絵の良さが判る絵の友人も何人かいると思っています。でも、彼らが見に来てくれるとは思っていません。なにせ、案内も何もしていないからです。昔、一緒に六本木とかでゲリラ的グループ展をやっていた連中です。彼らの内の相原君とかAKIRAとかは、本当にペインターで、(つまり、今流行りの小奇麗な、コンセプチャルな、コマーシャルな”アーティスト”ではなくて)、二次元の絵画の良さというのが本当に判る連中でした。
たぶん、音楽とかにもそういうのがあるのだと思います。自分が演奏家だとしたら、演奏の音色とかタッチとか、楽譜で表せる音程とか強弱だけじゃなくて、鑑賞する微妙な要素があるのだと思いますが、そういうものは、自分が描き尽くしていたり、演奏し尽くしていたりした経験がないとわからないものだと思います。
まあ、そういう話しはどうでもいいことですが、
 
まだ、来週の火曜日までやっていますので、是非、展示している油絵の(アクリルではありません)マチエールを見に来てください。