大本教

今日は、テレビで大本教のことをやっていたので録画しておいたものを見た。
社会学者だか宗教学者だか、若い学者が、大本教の本部を案内されつつ、出口ナオや王仁三郎の足跡を紹介していた。
僕も大本に行ったことがある。そのとき、不思議と、来客用の和室に通されて、芳名帳にサインさせられた。そして、そのあと、白装束を着た神主のような人に、広大な大本教の敷地のあちこちを案内された。何故そんなことをされたのかわからない。でも、そのとき僕が強く感じたことを今でもはっきり覚えている。それは、王仁三郎が死んだ後の大本の広大な本部など、何の役にも立たないということだ。
案内してくれた神官のような人は、今日はあいにく教主が外出されているので、お目にかかれませんと言った。本部の大きなガラスケースの中に、王仁三郎の跡を継いだ大本の教主が、ローマ法王と一緒に写っている写真が何枚も陳列されていた。大本教は、世界の宗教は一つであるという。さらにいえば、大本教が世界の宗教をひとつにするということなのだと思う。そのあと、大本教の本当の後継者は私だと言っている人の家に泊まった。もちろん、現在の宗教法人である大本教の教主ではない。
そして、そのあとすぐに、偶然にもローマ法王が来日されて、大きな話題になった。そのときも僕は、テレビに写っているローマ法王を見て、なんの役にも立たないと思った。
自分が真の大本の後継者だと言っている老人は、僕の名前を聞いた。名前を告げると、紙に書けという。紙に名前を書くと、生まれつき位を持っていると言った。そのおじいさんの家では、神がかりによって自動書記が行われているようだった。
僕は、神がかり的な自動書記を身近で何度も見てきた。Yさんが紙にものすごい早さで言葉を書き、その言葉を自ら解説してくれた。その言葉の崇高さは、大本教にも及ばないと僕は思っていたし、いろいろな神がかりがあるが、中には低級な霊のいたずらもあるから、なにもかも一緒にしてありがたがることはできないと思っていた。
王仁三郎の後継者を自認するおじいさんの大きな家の居間には、普通の家にはないよいな、とっても大きなテレビがあった。僕がおじいさんに、大きなテレビですね、と言うと、おじいさんは、神さまが自動書記で、一番大きなテレビを買えと言われたと話した。
その屋敷に一晩泊めてもらったが、期待していた霊現象はなにも起こらなかった。でも、逆に、霊が低いと、何かの霊現象が起きるのだと聞かされた。
今思うに、僕はあの頃、とても純粋だった。しかも一途だった。あれやこれやに興味があるのではなく、ひとつかふたつくらいのことにしか興味がなかった。それは、あらゆる宗教に共通する真理、そして神を知ること。ただそんな現実離れしたことに集中し、感覚も過敏過ぎるほど繊細になっていた。
でも僕は、バカなことに、Yさんの自動書記を保管しなかった。あれらを貰い受け、ファイリングし、分類し、保管していたら、新しい新興宗教でもなんでも出来たに違いない。でもYさんは、書き終わり、僕に解説して聞かせ終わるとすぐに、文字が書かれた紙を何度も折って、ゴミ箱に捨ててしまった。私は何も残さないの、と言っていた。
それらは、今流行りのチャネリングなどとは比較にならないほど高度で正確でまったく無駄のない言葉だった。
それらが今なにひとつ残ってないのは、とても残念至極だ。