瞑想

 
最近、瞑想をしている。
でも、漫然と20分、30分、1時間瞑想していてもだめだと感じている。
僕は、瞑想の最中、いつも、瞑想の仕方がわからなくなる。
中学の頃からいろいろな瞑想をしていたせいでもある。
 
主に、どれをやろうか迷う”方法”は以下のとおりだ。
マントラ瞑想。数息観。ただ思考を見つめる瞑想。チャクラを覚醒させる瞑想。神と繋がる瞑想。
そして、なにもしない、ただ手放すだけの瞑想。
 
瞑想と一口に言ってもいろいろある。
そして、ただ座っているだけでも、主体的にいろいろと試みる必要がある。
というか、ただ座るだけで、即座に自我をなくすことができれば、こんなにいろいろな瞑想など存在しないに違いないが、
それができないから、自我は”瞑想”と称して、いろいろな主体的な能動的なことを試み始める、否、始めてしまう。
そして、そんな自我に翻弄されて、瞑想している自分は”瞑想”自体に迷う。
 
そもそも”瞑想”とは何なのか?
それすらも知らずに、はたして”瞑想”ができるだろうか?
 
ところが、ある一つの方法を試みることにすると、即座に、はたしてこれが”瞑想”なのだろうか?という疑問が湧き出てくる。
瞑想とは本来、なんの方法もないものなのではないのか。
そして、そのなんの方法もなく、回答もない瞑想、それが禅というものかもしれないが、
それすら、「なんの方法もない」という方法を自らに課しているだけではないのか?
 
ただ座る。それは、回答がないという前提に立っている。
仏教では、無我である。
全ては縁起によって生じ、普遍のものなどなにもない。
本質的な実体など存在しない。
仏陀は、そのことを悟ったという。
それは、仏陀の実体験、仏陀の悟りだろう。
でも、そもそもインドでは、ブラーフマという実体がある。
ネオプラトニズニムにも、イデアという理想がある。
仏教には普遍的な理想はない。
全ては相対的だ。
オオカミをイヌから区別できる”実体”はない。
イヌが野生化すればオオカミになり、オオカミが飼い慣らされればイヌになる。
そして、どこからがイヌで、どこからがオオカミなのか区別できない。
それが現代流行りの哲学らしいが、仏教は現代哲学に近い。
でも、プロティノスは、理想の善があると言う。
理想の三角形が初めにイデアとしてあり、
この世に存在する不完全な三角形は皆、イデアの影のようなものでしかないと。
そして、絶対的な善が、初めに理想のイデアとして存在しているという。
一方で、ニーチェは、初めから善は存在しないと言う。
善は弱者が強者に負けたのを悔んで、強者を悪とし、自らを善だとしただけだと。
 
僕にとって瞑想は、「理想の真、善、美がそもそも初めからあるのか、イデアがそもそもあるのか、それともないか」によって、ぜんぜん違ったものになる。
僕にとって、それが瞑想の大前提になる大問題なのだ。
 
つまり、それは、自我はあるのか?
それとも、ないのか?
という瞑想の大前提でもある。
それによって、瞑想の方法が変ってくる。
 
それ(そもそも自我あるのかないのか)を突き詰めてみるのが瞑想だと言われるかもしれない。
ところが、そうではない。
そもそも、理想の魂があるか、ないかでは、瞑想そのものが違ってくるのだ。
なぜなら、なにもしないのが瞑想ならば、そもそも瞑想などしなくても同じだろう。
とりあず、現在、今、自分という自我はある。
それが小さな自我だとしても、あることはあるのだから、この小さき自我が何かを試みる、試みてしまうのは当然だろう。
それは、”瞑想”にしても同じこと。
瞑想、即、無我とはいかないのだから。
 
煩悩としての、雑多な思考としての小さい自我がある。
それが、さながら僕自身だろう。
ところが、その小さい自我を超えた本当の自分というものはあるのだろうか、それともないのか?
玉ねぎの皮をむくように、外側から自我の皮を一枚一枚剥いていく。
すると、最後には何も無くなってしまうのか?
それとも、理想のイデアとしての魂、光輝く核が出てくるのか?
 
そんなことを考えながら、最近、瞑想をしている。
そして、ふと思いついたことがある。
 
それは、シャンカラの弟子がシャンカラに尋ねていることでもある。
 
「私は眠ると苦しみを忘れます。でも起きるとまた苦しみを思い出します」と
弟子がシャンカラに真剣に訴えている。
”苦しみ”とは、すなわち、”自分自身”のことである。
自分でありながら、自分ではどうすることもできない”小さな自我”。
確かに、眠ると、いつの間にか、意識を失って、自分という苦しみを忘れる。
でも、起きると、また自分という苦しみに包まれている自分を見出す。
 
それが、僕にとってはひとつのヒントだった。
それは、僕自身でもあった。
 
そして、思いついたことは、こんな問いの形で表現される”方法”だ。
”方法”とは、瞑想の方法でもあり、常に意識してみようと思う”公案”でもある。
すなわち、
「僕は、僕ではない思考ができるのだろうか?」
 
昨日から、少し、それに成功している。
それは、夢見のような状態に似ている。
自我から離れて、覚醒したままで夢見るのだ。
 
そんなことを昨日思いついたので、記録しておこうと思った。
 
 
P.S.
 
今日、感情がコトントロールできなくなった。 
”感情”というのが、今の僕の最重要なキーワードだということに、今日、気付いた。
 
そして、徐々に、薬を止めようと思っている。