8月15日

 
こんばんわ。
 
今日は終戦記念日。日本にとっては、敗戦記念日ですね。
 
私にとってこの一日は、いいこともあれば悪いこともありました。
 
どちらかというと、悪いことの方がたくさんありましたし、その悪いことは、今日に限ったことではなく、当分続いていくでしょう。
 
わたし個人のことが、まるで今日のニュースにもフィードバックしているような感じがします。否、その逆でしょうか?
 
尖閣諸島に”わざと”上陸した中国人。
 
竹島に”わざと”上陸した韓国の大統領。
 
ナショナリズムを”わざと”煽り、近隣との平和を乱すことを国民に挑発する行為は、見ていてとても嫌な感じがします。
 
それと同じように、個人の関係でも、”わざと”いやなことを言う人がいますが、こういう人に対して、どう対処したらいいのか、とても迷います。
 
相手は”わざと”そうしているのだから、こちらがいくら正論を言おうと聞く耳を持ちません。
 
そういう相手に、まともに対応していても、無力感を感じるだけです。
 
それが相手の意図だからです。
 
相手は、私を負かせて、勝ち誇りたいのです。
 
でも、私は平和を好みます。
 
できれば、平和のために努力することの方が、前向きでいいと思います。
 
同じエネルギーを使うなら、平和のために使った方が建設的だと思うのですが、
 
そうでない人もいるのです。
 
”わざと”争いとか、いさかいが起きるように煽るのが好きな人たちがいます。
 
そういう人たちの言動を聞き、行動にさらされると、怒りが湧いてきて、イライラさせられます。
 
でも、その手に乗ってはいけません。
 
イライラや怒りから行動したり、発言したら、奴らの思う壺です。
 
争いに巻き込み、手をだすのを待っているのです。
 
でも、結局は、争いからは何も生まれてきません。
 
お互いに傷つけ合って、憎しみを増すだけです。
 
それでも、なぜ、挑発してくるのでしょう。
 
相手は、こちらが手を出すのを待っているのです。
 
こちらが手を出したら、それを理由に、えげつない暴力にでて、こちらを叩きつぶそうとしているのです。
 
つまり、相手が挑発してくるのは、こちらをみくびっているからです。
 
みくびられたて黙っている訳にはいきません。
 
憶病だと思われ、相手はますますエスカレートします。
 
でも、だからと言って、挑発に乗ってはいけません。
 
たとえ、”チキン”だと言われても、笑っていましょう。
 
相手が罵倒してきても、心を落ち着かせて、怒りに火をつけてはなりません。
 
平和な心を保つのです。
 
これは、言うほど易しいことではありませんが、
 
いくら傷付いても、我慢して、状況を見守るのです。
 
こちらが、弱いと判かれば、相手はますますエスカレートしてきます。
 
これは、イジメと同じかもしれません。
 
奴らは、ますますえげつなくなってくるかもしれません。
 
でも、こちらまで、えげつなくなる必要はありません。
 
じっと、状況を見守るのです。
 
えげつない、利己的な、レベルの低い、醜い行為が勝利することはありません。
 
結局は、私は、ナショナリズムそのものが醜い概念だと思います。
 
過去のナショナリズムの禍根を、現在のナショナリズムで復讐する。
 
どちらも、ナショナリズムそのものが醜いのです。
 
だから、私は、オリンピックがあまり好きではないのです。
 
自らの文化、慣習、そして民族、あるいは国家を誇りに思うことは、近代人が誰でも持っている自然の感情でしょう。
 
でも、その誇りを、他と比較したり、他と争ったりしたら、それは陳腐なエゴになってしまいます。
 
近代の国民国家の古い時代は、もう終わりです。
 
醜い戦争をして、植民地を争い、資源を略奪する時代はもう過去の遺物です。
 
その愚かしい過ちから、全ての国家がもうそろそろ目覚めるときです。
 
過去の過ちを認め、謝罪し、そして、誤ったナショナリズムそのものが、悲劇の元凶だったのだということを、敗戦国のみならず、戦勝国も認めるべきです。
 
つまり、いかなる理由であれ、国家が争うことは不毛であり野蛮であり、国境線を争うことはもうやめるべきだということに、もうそろそろ全ての国家が気付いてもいい時期です。
 
国境を犯すことも、国境を守ることも、もはや無価値な行為であると認識すべき時です。
 
自分の領分だと言って囲い込むのは、もうやめましょう。それと同時に、相手の領分にずかずか踏み込むのも、もうやめるべきです。
 
あたかも、線引きなどないように、お互いがオープンでいることができるようになれないものなのでしょうか?