市民革命?

 
 
 
今日、体調が優れなかったので(精神的にも・・)、
先日、休日出勤した代休をもらって家にいた。
 
土曜日、哲学堂を散歩し、そして、なぜか明治神宮に行った。
そこで、いろいろな気を受けたような気がした。
そのせいだろうか、帰ってきて、少し頭がボーとしてなにも考えられなくなった。
 
今日は、朝目が覚めると、とても戦場のような仕事場には行けない気がした。
ぜんぜんだめだ。
闘えない。
2月中に休みを消化しければならない代休が一日あったので、
しかたなく、休みを申請した。
 
なにをやる訳でもなくダラダラしていた。
 
なにかすると、すぐにウトウトと眠くなった。
 
昼過ぎから、土曜日に行った哲学堂に一人で出掛けた。
 
雲が棚引いている水色の空。
木々の緑が壁のように連なっている。
その向こう側の手が届きそうな空を見ながら思った。
 
ハイヤーセルフについて。
もし私のハイヤーセルフがいるのなら、
どうして、私にはその存在が認識できないのだろうか?
きっとそれを認識するための手段を持たないからだ。
でも、もしそれが存在するなら、
存在することくらい認識できてもいいはずだ。
 
そんなことを思いながら、街をぐるっと回って、
夕食の買い物をして3時頃家に戻った。
 
北アフリカでとんでもないことが起きている。
あの、リビアの狂犬カダフィが、民衆のパワーによって権力の座から引きずり降ろされようとしている。
嘗てアメリカが、カダフィ一人を殺すために空挺部隊を派遣し、家族を皆殺しにして、
それでも権力の座に居座った反米派。
世界一の軍事大国アメリカと渡り合った狂犬でさえ、
一般市民のパワーには勝てないというのは、なにか皮肉な時代の変化を感じる。
だれか一人のヒーローによって政治が変わる時代は終わったのかもしれない。
民衆パワーが新しい時代を呼びこむ原動力となって、
世界的な変革の波が打ち寄せているのかもしれない。
 
そろそろ、価値観の大転換が起きてもおかしくない時期に来ているのかもしれない。
 
金に使われて、いつの間にか経済に振り回されるようになってしまった人間。
今では、生身の人間よりも、”法人”という法律上の人格の方が上位にいて
人間をこき使っている状態だ。
そのせいで、世界的に経済がおかしくなり、
貧富の差が拡大しているのに、
だれもこの”グローバル経済”のかじ取りをできる者がいないまま、
地球は破滅の方向へと突き進んでいる。
 
もう手遅れ寸前だ。
法人によって回っている貨幣経済が、これ以上人間を歯車化し、奴隷化しないように
今こそ、生身の人間の価値観に立ち返る時に来ているのではないか。
 
政治も経済も、一般の市民の普通の生活に立ち返って
国家だとかイデオロギーだとか、グローバル競争だとか、経済戦略だとか
頭のいいゲームの理論で戦略など立ててばかりいないで、
謀略や競争はもうやめて、
もっと単純明快なことに立ち帰るべきだ。
 
日々、平和に、喰い、住み、寝られること。
その最低限のことができるように、
社会の仕組みをもっと単純明快に変える必要があるだろう。
それも世界規模で考え直さなければならない時期に来ているような気がする。