三連休前の爆弾賞

 
 
やっと一週間が終わったから
 
3連休は廃人になりたいと思ったが、
 
土日と用事があってそうもできない。
 
まあ、しかたがない。
 
 
今日は一人で居酒屋(明神)に行って
 
砂肝ポン酢、カキフライ、みがきニシンを食べて
 
黒ホッピーと刈穂を飲んだ。
 
 
ノーベル平和賞は中国の民主化運動の活動家に決まったらしい。
 
最近のノーベル平和賞は、”過去の功績”よりも”未来の効果”をねらって与えられるようだ。
 
それはそれで戦略的でいいのかもしれない。が、
 
すこし政治的になり過ぎてやしないだろうか。
 
平和が政治で解決できるのなら、すでに地上は平和になっているはずだ。
 
ところが政治的な手段によっては、平和というものはもたらされないから
 
今まで戦争が繰り返されてきたのではないだろうか。
 
だから、平和賞というものを政治家に与えること自体が無意味な気がする。
 
 
まあ、どうでもいい話かもしれないが、
 
ノーベル賞は、数学とか、物理学とか、化学とかには合っている賞だとは思うが、 
文学には似つかわしくない賞だと思う。
 
だから、文学賞は、サルトルのように、貰うのを拒否してこそ文学者という気がする。
 
のこのこノルウェーだかどこだかに出かけて行って、爆弾を製造して大儲けして作った賞を貰うような文学者は、まったくなにも考えていない文学者のような気がする。
 
まあ、どうでもいい話かもしれないが、
 
エセ神秘主義文学者が文化勲章を拒否して爆弾賞をもらいに行ったのには、失笑を禁じ得なかった。
 
三島の方がぜんぜん優れていると思うが、もし彼だったらどうしただろうか? と想像すると面白い。彼なら逆のことをしたかもしれないと思うと複雑だ。
 
文学にしても、政治と結びつくと、おかしな方向に行ってしまい、複雑怪奇なパラドックスになってしまう。
 
だから、あのような賞は、あらゆる権威が嫌いな僕は、あまり好きじゃない。
 
世間で騒ぐと余計にそう感じる。
 
国で幾つもらったか競っているのを見ると、オリンピックと同じ近代のメンタリティで、いいかげん辟易する。