ジェネレーションX

 
 
 
 ダグラス・クープランドの『ジェネレーションX』を読んだ。
 以前、クープランドの『ゴッド・ヘイツ・ジャパン(神は日本を憎んでいる)』を読んであまり面白くなかったと書いたが(ダグごめん)、今回のジェネレーションXはさすがに最高だった。
 原書で読んだらもっと面白んだろうなと思うけど、僕はそんなに英語が得意じゃないからしかたがない。
 日本語だと、友人と交わす会話の中に含まれる気の利いたフレーズやひねったジョークのニュアンスまでは翻訳しきれないと思うけど、もともと日本人同士だと、アメリカ人のようにウイットに富んだジョークを交えて友達と話したら、かえってカッコつけてるみたいで浮いてしまう。日本人同士ではギャル語だの省略語だのがあるくらいで、言葉の意味の中にひねったジョークやフレーバーを加えてキャッチボールするなんていうオシャレなことはできないような気がする。だから、日本を描いた『ゴッド・ヘイツ・ジャパン』に登場する日本人は、どちらかというとアメリカ的に読めてしまい、ちょっとちがうような気がしたのだが、さすがに『ジェネレーションX』は、まさに自分達自身のことを等身大に描いているから、カッコよさがストレートに伝わってくる。
 モハベ砂漠に暮らすドロップアウト(?)した男女3人(男2人女1人)の物語。
 著者ダグラス・クープランドは、ちょうど僕と同じ齢。読んでると、きっといい奴なんだろうなって思う。IQが高くて、ユーモアがあって、ニューヨークでもサンフランシスコでもないカナダ出身のアメリカ人。でもアメリカのサブカルチャーに精通していて、気の利いたエピソードを落語家が小噺を即席するみたいにひねり出すことができる。しかも即席した小噺の中には示唆に富んだフレーズが逆説的に教訓めかさずに散りばめられている。オシャレ。日本に来て、マガジンハウスかなんかでエディターをやっていたっていうから、きっと日本語も上手いのだろう。同じ齢の彼と友人になったら、さぞかし楽しいに違いない。きっととってもいい奴なんだろうなって思う。(そうだろ? ダグ。)
 僕みたいにひねくれた奴を見たらびっくりするかもしれないが、ゴミゴミした東京で生まれ育つと、全てを爆弾でボンッとぶっ飛ばしたくなるほどうっ屈してきて、結局、今の僕みたいに屈折した性格になるんだけど、カナダやアメリカの雄大な大陸で育ったダグには、そんな地理的な閉所的トラウマはないだろうから、言語感覚も、IQの高さと記憶力のよさを屈折せずにそのままおおらかに表現できるから、読んでいて気持ちいい。(ところで、ジェネレーションXを読むんだったら、レッチリがよく合うよ。)
 でも、日本とアメリカの違いはあるにせよ、同じ“ジェネレーションX”としての共通点はあるような気がする。それは“大きい物語”からの“ドロップ・アウト”。偉そうな言い方をすれば、“われわれ”が、近代以降初めて、“大きな物語”からドロップアウトし始めた最初の世代なのだ。
 ベビーブーマー達はそれなりに、それまでの“近代”から決別しようとしてきた。でも彼らにはまだ“共有できる物語”があった。“ビートルズ”にしても“ヒッピー”にしても“ヤッピー”にしても、“反社会的”であったり“反抗的”であったり“反体制的”であったりしても、それなりに共有できる価値観だったから、ひとつの世代的ムーブメントになり得た。でも“われわれ”X世代にはそれがない。
 クープランドは後書きで書いている。1961年生まれの日本人が、歴代のIQテストで最も高いIQを採ったことを深い印象と伴に記憶していると。(たしか、Zenもそんなこと言ってたよね〜。)確かに、1961年生まれと言えば、今のオバマ大統領がそうだし、ダグ本人は言うまでもなく、1961生まれの日本人と言えば“僕”がまさにそうだ。(もしかしたら僕も、そんな高いIQを持っているのかもしれない。自分では気づかないだけで…。)でも、その高いIQを社会のためとか、出世のためとか、また、金持ちになるためとかに使おうと思わないのがX世代の特徴なのだ。(少なくとも僕はそうだ…。)なんとかマックジョブで喰いぶちさえ稼げれば、あとは“大きなストーリー”に絡みとられずに、小さくても“自分だけのストーリー”を構築することに61年生まれの高いIQを使いたい。そんな考えがX世代にはあると思う。ダグラスにとってそれは、モハベ砂漠で友人と暮らすことだったかもしれない。ところがそんな広大な砂漠がない東京に暮らす者にとっては、カプセルのようなアパートの一室で、“オタク的”な趣味(DTMでも音楽制作やコンピュータグラフィックスやフィギュアの製作など)に没頭することが、自らのストーリーを紡ぎ出す唯一の道だったのかもしれない。
 僕の場合はもっとアートなことをやっていた。
 古道具屋で見つけた中古のエレピにエフェクターかまして、ラジカセに繋いで即興演奏を録音した。まだ“ノイズ”なんていうジャンルも知らないまま、そんな雑音を録音したテープを何本も作成した。
 それから、ぺんてるやサクラの12色のクレヨンで、画用紙にいたずら描きをした。ニューヨークのメアリー・ブーンのニューペインティングとシンクロしていたが、当時日本ではもうちょっとなるくなった日比野あたりの段ボール画がもてはやされていた。でも僕のはもっとストレートで過激だったから、一般には受け入れられなかったのだと(勝手に)思っている。(その後、フランチェスコ・クレメンテ《ニューペインティングの3Cの一翼を担うスーパー・ペインター》に二度も実際に遭ったが、彼は僕よりも一回り年上の世代だった。)話は逸れるが、ダグラスが日本に来て雑誌の編集をやっていた頃というのは、“ポパイ”とか“ブルータス”とか“宝島”とかの雑誌が“トレンド”を作り出し始めた時代だった。その頃、僕も、ダグと同じように(?)、渋谷の道玄坂にあるマンションに小さなオフィスを構えていた編集プロダクションで働いて(?)いた。だから、あの頃の編集者たちや出版社に集まるトレンディーな連中(写真家やイラストレーターやコピーライター)なんかの“匂い”がよくわかる。僕は彼らを全共闘崩れのヤッピーだと思っていたし、そんな雑誌が仕掛けて盛り上がってる“トレンド”なんて、軽薄な“やらせ文化”だと思っていたから、ポパイやブルータスなんていう雑誌を1ページも読んだことはなかったのだが、その頃よく採りあげられていたのは“ギンズバーグ”だったように記憶している。つまり“ビート”はカッコいいっていう空気が底流にあって、その周りを“エコロジー”とか“カウンターカルチャー”とかを志向する“バックパッカー”が取り囲んでいた。今思えば、もろ団塊の価値観だ。
 その頃、僕みたいなジェネレーションは“新人類”と呼ばれていて、得体の知れない少数派として、トレンドの識閾上に浮上することなく、常に混沌として無意識下に押し込まれたままだった。
 クープランドがいみじくも言うように、“われわれ”IQの高い日本人X世代は、ただただ沈黙していた。そして、未だに沈黙したままだ!
 “歴代でIQの最も高いグループ”のメンバーの9割が、日本企業の歯車に加工されて吸収されてしまった。そして残りの1割の内の8割は、オタク化して、音楽や美術やその他サブカルチャーの趣味を楽しむ“人畜無害な”低所得者層となって化石化してしまった。さらに残った2%のうちの半分は、インド・アメリカに行ってジャンキーになり、帰国してからコンピュータ・ネットワーク上に自らのファン・クラブを立ち上げて悦に入る“裸の王様”となってしまった。僕はそのどれにもなれなかった“最後の1%”である。
 最後に、ダグ・クープに倣って、“例外的な”僕のエピソードを紹介しよう。
 
 ラジヲを修理しようとして外したネジを、次々に亡くしていくように、僕は自分の理想を一つ一つ外して、どこかに無くしてきたような気がするんだ。
 どこに行ってもそれは見つからなかった。あらゆる所に無数にあるように見えるけど、注目すべき所が多すぎると、どこに目をやっていいのか分からなくなる。それなのに視線は、憧れとか、同情とか、リスペクトとか、好意とか、嫌悪とかを行き来しながら、完璧な一点を発見しようとし続けてる。それが光を志向する“目”の宿命なのかもしれない。だから、しかたがない。
 逆説的に聞こえるかもしれないけど、僕がその“美”を発見したとき、僕の視界は完全に曇っていた。なにせ、近眼なのにそのときばかりは眼鏡を掛けていなかったし、夜だったし、街灯もない野外だった。しかも、ぼくは真っ裸で、もくもくと湯気の立つ風呂桶の中にいたんだから。ただ、やっぱり眼球が光を志向する宿命には抗えないらしく、僕が目を向けたのは、野外の大きなホット・タブから見える唯一の光、庭に面した大きな家の窓からこぼれる灯りだった。するとその窓ガラスに、女性の、いや、女体の影が映っているように見えた。そしてその影は艶めかしく動いているように見える。更にこともあろうに、まるで衣服を脱いでいるように見える。深夜で、僕一人でホット・タブに浸かっていた。辺りに誰もいない。見えるのは、光の中に浮かぶその人影だけ。にわかに、夢から醒めるように、窓ガラスが開き、中から全裸の女性が出てきた。シー・ケイム・イン・スルー・ウインドウ・トゥ・ホッタブ。こちらに近づいてきた茶色い髪の全裸の彼女こそ、僕にとってのグルーシェンカ、娼婦にして処女のジプシー、イシス・マリア。そのとき以来、僕の目はなにも見えなくなってしまったんだ。
 つまり、理想は、見つけようとしても見つからない。ラジヲの部品を全部亡くしてしまったとき、突然聴こえてくる音楽のように、なにも見えなくても、突然目の前に現れる美。目で見えなくても美だとわかる、最も理想から遠いように見えるもの。
 そんなところかな。
 
 
 ジェネーレーションXのダグラスの書いた後書きを読まれよ。わが日本人の1961年生まれの友よ。沈黙したままの“われわれ”は、挑発されている・・・・・。