哲学の庭

 
 
昨日今日、ランニングも筋トレもしなかった。
 
今日は、撮りためていた「日曜美術館」を一気に見た。
運慶、伊藤若冲バロック美術。
みんな好きな作家だ。
バロックルネサンスの違いについて、
男性ソプラノ歌手が歌を歌っていたのが、よかった。
イタリアの音楽っていいなと思った。
ルネサンスにしてもバロックにしても。
やっぱり、ギリシャ・ローマの匂いがするからだろうか。
 
夕方、車のタイヤを交換している間に、”哲学堂”に行って、
ワグナー・ナンドールの「哲学の庭」を改めて見た。
宗教っていうのは、不思議だ。
やっぱり”理想”というのがあるんだろう。人間には。
それを追求していくと”宗教”になるんじゃないかと思った。
 
一方で、美の”理想”を追求すると”美術”になる。

でも美術は具体的なのに対して、宗教はなんの実態もない。
一つの実態のない理想を、己の精神として日々生きる。
行い、思い、感情、全てにおいて、理想に従って行動する。

仏陀やキリストや老子アブラハム、イクナトンなどの宗教の始祖は、
自らの中に神(理想)を直接に見た人たち。
一方で、ダルマ、聖フランシス、ガンジーなどは、自分を無にして、
はるか彼方に存在する永遠なる神(理想)に、全てを捧げた人。
そして、ハムラビ、聖徳太子ユスティニアヌスは、
人々が従うべき理想としての法を考え出した人たち。
…だったのではないか、と、今回、彫刻を見ながら思った。
 
いずれにしても、”理想”を自らの内に抱いていなければならない。
 
美術だと、理想の美を追求したギリシャローマを復権させたルネサンス
バロックでそれがガラガラと崩れ、歪んで、
あるがままの”人間”を追求し始めた。
あるがままの人間は、そんなに美しくはない。
8頭身の理想のプロポーションばかりではないし、
人間の心なんて、汚い。
そのあるがままの汚さをリアルに描くことが”真実”の追求であると
価値観の大転換がなされた
…のではないか。
 
ルネサンスはペストの影響が大きかったらしい。
ペスト後、人々は”理想”を探し求めた。
神の中ではなく、人間の中に理想を求めた。
でも、人間の中の理想は、
宇宙と照応するような、知的な、幾何学的な美だけではなく、
もっとドロドロしたものを内包した、
そしてそれらを内的な熱によって昇華し得るような、
美と醜が共存するようなものなのかもしれない。
生の中に死が含まれるような。
下手をすると世俗そのものになりかねないような”美”。
たまには、世俗をとことん追求するのもいいだろう。
 
世俗が悟りだ、とか、仏教では言うらしい。
小乗を突き詰めていった先に大乗が生まれたように
内に内に形而上的理想を追求していった挙句に、
外なる宇宙のみならず、最も身近な”世俗”行きつくってことも
あるのかもしれない。
 
でも、僕としては、やはり、
一切の雑音のない、
静寂の中で、
世俗からまったく隔絶した自分
自らの内に宇宙を探してみたい。
そこになにがあるのか・・・ 
そんなこと不可能なのだろうけれど…。