1Q84

 
 
 話題の1Q84を読んだ。
 
 世界のハルキ、随分と文章が上手くなったもんだなと思った。
 (まあ、こんなこと書くと生意気だと思われるだろうが・・・)
 ピアノで言えば、粒が揃ってきたという感じがする。
 その分、小粒になったというか・・
 前はもっとバラバラで、その分ダイナミックだったような気がするが、
 粒が揃い過ぎて、文章が上手くなりすぎて、面白味がなくなったような気がする。
 
 文体についてはそんな感じ、だが、内容については・・
 やっぱり団塊の世代(それよりちょっと後?)の作家だな、という感じ。
 つまり、団塊の限界ってカンジ。
 つまり、ジイサン。
 まあ、ハルキさんには悪いが、別に知り合いでもないし、
 私のような無名の一般人が酷評したって、痛くも痒くもないだろう。
 オバマノーベル平和賞をとるご時世だから、
 エッグ、インサイド、ザ、ウォールのイスラエル演説で、
 ハルキさんがノーベル平和賞ってのも十分あり得る話だよね。
 僕だったら、授賞式に参列してあのような演説をしたのなら、
 目録だかトロフィーだかメダルだかを授与された瞬間に、
 それをうやうやしく返却するか、パレスチナ難民に寄付すると世界に向かって宣言するだろう。
 ところが、ハルキさんはあの演説の後、まんまと授与されて、当然のように賞をいただく、
 というのはちょっと軟弱なんじゃない?
 まあ、彼はアーティストじゃないってことが証明されたようなもんだね。
 もっと過激なパフォーマンスができないもんかね。
 
 過激といえば、僕が最近読んでるパラニュークとか、
 同じカルトを描いても、クープランドなんかの方がずっと現代的。
 ハルキさんはそんなXカルト世代に触発されたのか、
 カルトを描いているが、
 なにせ、設定がヤマギ(ツ)イズムもどきだったり、左翼的過激派だったりするところが
 団塊の世代の限界。
 70年代のインドのグルブームを知らない訳でもないだろうが、
 ニューエイジとかインドのグル達の理想郷建設の時代を、肌で感じていなかったのだろう。
 左翼とか右翼とかのイデオロギー的政治的なカルトというのはもうとっくに時代遅れ。
 そのあと70年代、インドで、シュリ・オーロビンドとか神智学から分離したクリシュナ・ムルティとか
 それからかのサイババとか、そして我がラジネーシとかが宗教的な理想教を建設しようとし始めた。
 それは政治的イデオロギーによる社会変革とはちょっと違う。
 社会制度とか法律とか経済の仕組みを変えることより、自分自身の意識を変革することに重きを置いた。
 つまり、ユートピア建設のためには、自分の意識を変えなければならないとうアプローチ。
 そのために、ラジニーシは、古今東西の宗教の修行テクニックと、
 現代心理学、精神医学の心理療法を世界中から取り寄せて弟子たちに実践させた。
 社会制度については、唯一、結婚というのをナンセンスだとした。
 だれでもだれとでも好きな時に愛し合える。
 ”不倫”というのは存在しない。
 親と子の関係もなくなる。
 子供はコミューンが面倒をみる。
 セックスを抑圧しないから、神経症も生まれない。
 親も子もないから、あらゆる発達心理学的問題からも解放される。
 思春期の反抗もない。
 束縛もない。
 自由だ。
 コミューンには、いつでも誰とでも抱き合い、キスをし、愛し合えるという基本理念が浸透してた。
 そのせいで、コミューンには常に自由の空気が満ち溢れていた。
 数々ある社会的規範の内、たったひとつ、それだけ変わっただけで、
 ずいぶんとコミュニティーは変化するものだ。
 理想郷といっても、どこか未来に理想がある訳ではない。
 今、現状を100%肯定することが理想なのだ。
 なんの過不足もない。
 ただ、現在、今ここを肯定できない様々な社会規範、タブーがあるだけだ。
 そのタブーを取り除けば、今ここにあることは最高にハッピーになる。
 つまり、善の価値判断の基準、行動の規範を定める基準は、”快楽”だ。
 快楽を肯定することによって、新しい社会ができる。否、新しい社会に変容していく。
 だれでも愛し合うことのできるコミューン。
 つまり、だれでも、フィジカルにメイク・ラブすることができるカルト。
 しかも、みんなが瞑想し、過激な心理療法を体験し、混浴のシャワーを浴び、寝泊まりし、精神も肉体も裸になる。
 
 ちょっと日本の右翼左翼の理想郷建設とは違うでしょ。
 
 まあ、その頃はまだエイズもなかったから、フリーセックスが未来永劫成り立つと考えられていた。
 フリーセックスが成り立って、親子がなくなったら、
 それこそそれだけでぜんぜん違う社会が出来上がる。
 そして、実際にそれを実践していたから、噂にたがわず、R教団はフリーセックス教団だった。
 ただ、当時は”カルト”という呼び方はあまりされなかった。
 
 カルト、カルトと猫も杓子も言われるようになったのは、人民寺院集団自殺からだ。
 
 キリスト教系の新興宗教はこの世の終末を信じている。
 最後の審判
 だから、集団自殺したりする。
 70年代のインドの新興宗教には終末はない。(カルマ・ヨーガというのはあるけど・・)
 あくまでもビーヒアナウだし、現状肯定だから集団自殺など絶対しない。
 むしろ、外部を敵に回すことはあり得るだろう。
 エイズが流行りだして、フリーセックスが行き詰ると、ラジニーシ教団は武装化し始めた。
 
 そして、だんだん世紀末が近づいてくる・・。
 1984年も過ぎる頃・・・それ以前は、1984で世界滅亡、と言われてもいた。
 デビッド・ボウイの1984とか、ポール・マッカートニーの1985とかの歌もあるくらいだ。
 だんだんこの世の終わりが近づいてきて、終末、ノストラダムス最後の審判
 キリスト教系のカルトが集団自殺を始める。
 (一説に、アメリカ政府の陰謀説もあるが、エイズを含めて・・
 それを言い出したら話が横道に逸れてもっとややこしくなるからやめておくが・・)
 
 その頃になって、カルト、カルト、と言われ始め、
 だんだん、カルト自体も、自分はカルトだと言って過激になってくる。
 
 でも、ちょっとハルキの描くカルトとはニュアンスが違うんだよね。
 なんていうか、団塊の世代的なんだよねハルキ描くカルトは。
 武装化したり、自然農法的になったりするけど、
 ちょっと後ろに戻って行くような感じがする。
 やっぱりパラニュークとかクープの描くカルトの方が未来的だったりするんだよね。
 そこが限界かなって、同じ日本人の僕には感じられるんだけど、
 世界のハルキとなった今、世界の読者はどう感じるんだろう。
 特に、アメリカのカルトファンは? 
 
 僕は、南の島でレッド・アーミーの名付け親という人に会ったりもしたが、
 彼なんか筋金入りの団塊の左翼で(もちろん)頭も最高に良くて、
 しゃべることも面白かったし超過激だったけど、そしてカッコよかったけど
 なんか、ハルキはそこまで抜けてないよね。カッコよくない。
 同じ団塊でも、カルトを描いても学生運動になっちゃうハルキ。
 時代の匂いから抜け出せないって感じがする。過去の、彼が若かった時代から。
 その点、同じ団塊でもヨーコ・オノは未来的だと感じるのは僕だけだろうか?
 
 トドの詰まり、1Q84は、団塊の世代が書いた、時代遅れのカルト小説を
 今の流行に乗って書いてみました。文章はこなれて上手くなってます。
 みたいなカンジ・・かな。ぼく的には・・
 
 まあ、ハルキ先生にはわるいケドー。
 (ハルキファンにも怒られそうだケドー。)
 
 まあ、殴られそうだけど。
 別に、親戚でも知人でもないしー。
 同じW大卒、ではあるが、僕は二文の超レアな学生だったし・・
 
 でも、僕が在籍していたとき、ハルキさんが、W大賞をもらったんだよね。
 あの若い、誰だっけ、芥川賞受賞者の女の子の学生作家と並んでね。
 
 まんざら悪い気もしていなさそうだったし。
 
 なんか、そのあと1Q84読んで、なるほどなって思ったよ。
 自身は芥川賞直木賞もとってないから、でも、世界のカフカ賞とったし、
 若い美人の芥川賞作家と肩を並べて、尊敬されてもいるし、世界のハルキにもなったことだし、
 そういう小説、って、むしろ、彼の日常を有体に描いただけだったりして・・
 
 まあ、ぼくはあまりファンじゃないから。悪いけど。
 まあ、それなりに面白いとは思いますよ。
 本を貸してくれたSN君、ありがとう。