グールドのゴールドベルク変奏曲

 
 
 グールドのゴールドベルク変奏曲を聞いた。
 
 アマゾンで取り寄せて。
 
 82年のデジタル版。
 
 グールド最後の演奏だ。
 
 感動して、言葉が見つからない。
 
 でも、MP3に落としてイヤホンで聞くと、曲の最後がプチっと切れる音が少し気になる。
 
 それはともかく、
 
 すごいと思う。
 
 これだけピアノの演奏を命懸けで追及できるなんて、やはり天才だ。
 
 もう彼に匹敵するようなピアニストは、二度と出ないだろう。
 
 50歳で亡くなってしまったが、50歳で限界だったのだろうか?
 
 たぶん、肉体的に。
 
 神経的に。
 
 演奏するのは肉体で、精神だけじゃできない。
 
 精神が出したい音を、神経が指に伝えて、その音を耳で聞いて、脳で判断する。
 
 一連の神経伝達回路と筋肉、繊細な皮膚感覚、触覚、聴覚、右脳、左脳。
 
 すべてが限界まで集中して、一つ一つの音を出していく。
 
 でも、神経線維だって生物学的な細胞だ。
 
 加齢と伴に、弾力性も失われるだろうし、反射速度も遅くなるだろう。
 
 それ以上に、若い頃になかった”精神性”が加わるのかもしれないが、
 
 結局、”音”にしたって、物理学的存在だ。物質的存在だ。
 
 完璧に、究極的な演奏ができるには、年齢的限界が必ず存在する。
 
 彼は自分で知っていたに違いない。
 
 50で頂点に昇りつめたことを。
 
 テクニック的には若かった頃の方があったかもしれない。
 
 でも、演奏の究極的な頂点は、テクニック+精神性だ。
 
 昇りつめた時、あとは芸術的追及は、実際の演奏ではなく、理論なり、論文になってしまうだろう。
 
 ”音”を出すことによってしか、表現できないピアニストの宿命。
 
 彼はピアニストに殉教したのだ。
 
 楽譜があって、ピアニストがいる。
 
 ピカソが90まで”自由奔放に”絵を描いていたのとは少し違う。
 
 それでもピカソも最後は、過去の巨匠の名画の模写ばかりしていた。
 
 芸術というのは、”オリジナリティ”とは無縁なのかもしれない。
 
 バッハを聞いているとそう思う。
 
 なんだか、あたかも数学の数列のような音符の配列。
 
 天体の運動の法則にも匹敵するような普遍性。
 
 そこに、”個人のオリジナリティ”の出る幕はない。
 
 だからこそ、バッハは、逆に、最高に個性的なのだ。
 
 たぶん、個人的にも、とってもオリジナルな人間だったに違いない。
 
 そして、グールドもまた然り。
 
 バッハを弾いていても、ただのバッハに非ず、グールドのバッハだ。
 
 芸術に一生を捧げた天才。
 
 グールドを尊敬する。
 
 そして、
 
 ぼくが死んだら、
 
 お葬式には、
 
 仏教の坊主の読経はしないで、
 
 グールドの最後のゴールドベルク変奏曲をかけてほしい。
 
 それに合わせて、棺の前で、お焼香をしてほしい。
 
 聞きながら、そんなことを考えた。