原始的、暴力的

 
 
土曜日の仕事帰り、SNくんの家にまたDVDがらみで行って、
いろいろやって(結局できないことが分かった)、それから、
高円寺の明神丸に行って飲んだ。
日本酒がうまくて、つい飲み過ぎて酔っぱらった。
チャリでの帰り道、耳にイヤホン付けて酔っぱらって裏通りを走っていたら、
急に後ろから何物かに追突されてひっくり返った。
いや、追突されたことも分からない。
突然道路にひっくり返ってる自分を発見した。
 
見ると男と女がそばに突っ立って僕を見下ろしている。
一呼吸して立ちあがると、体の右側が痛い。
右のほお骨あたりに手をやると、べっとりと指に血が付いた。
その血がたらたらと顔を伝って流れ落ちている。
 
見ると男が目の前に突っ立っているので、胸倉を掴んで殴ろうとしたら、
「僕じゃありません! もう走り過ぎていっちゃいましたよ!」
と必死になって言う。
僕のチャリに後ろから追突した奴は、ひき逃げしたらしい。
「本当です。その人、違いますよ。大丈夫ですか?」
と、別の方向から若い女の子が心配そうに言っている。
どうやら、目の前に突っ立っている若い男は、
ひっくり返った僕を心配して見ていただけの、ただの通行人らしい。
そして、そこに居合わせた若い女の子は、この男ともなんの関係もない別の通行人のようだ。
顔から血を流しているのを見て
「大丈夫ですか、タオル貸しましょうか?」
と心配そうに言うが
「大丈夫」と言って、ひっくり返ったチャリを起こし、
外れた眼鏡を拾い、曲がったツルを直してチャリにまたがった。
 
耳にイヤホンを付けて、アイヴガッタフィーリンを聴きながら帰宅。
 
というわけで、今、右目の下が紫色になって、左のほお骨の所が切れて腫れている。
右肩と右足のひざも、服の下なのに傷ついて、血が出て腫れあがっている。
 
不思議なもので、怪我すると、肉体を感じる。
なぜだか、自分の身体なのに、長い間忘れていたような気がする。
コンクリートにぶつかった頭がい骨が物体であることを主張して痛むと、
逆に生きている実感が湧いてくる。
たぶんボクサーというのは、こんな快感を感じているのだろう。
 
そのせいでもないのだが、
今日の夜、中野ZEROの地下2Fで4時間、
音楽練習室が開いていたので、
ドラムの練習した。
  
右ひざがと右肩が痛かったが、
面白かった。
 
ドラムというのは、
結局、棒で何かを叩くわけだから
当然、物を叩いた反動がくる。
それを両手に受けていると、
手の骨が痛くなる。
巧く反動を利用して”楽器”としてドラムを”演奏”するなら
そのような”痛み”を感じることはないのだが、
”叩く”ことを主眼に、暴力的快感を味わいたいなら
当然、その見返りとして”痛み”を感じる。
ボクサーがサンドバックを叩くのと同じだ。
スポーツとして、”手数”と”テクニック”で勝負するのなら、
痛くないようにグローブをはめて、適当な力でサンドバックを叩けばいいだろう。
ところが、それを原始的にやるなら、
サンドバックを叩く拳が痛くなるほど、一回一回に力を入れて”殴ら”なければならない。
 
”原始的”というのは、つまり、近代的(デカルト的)”ルール”が生まれる前の、
”近代スポーツ”以前の”暴力”だ。
つまり、ぼくは今日、たったひとりで、ドラムを演奏するようにではなく、原始的に棒で”叩いた”。
そして、そのとき発する轟音を楽しんだ。
 
時間はたっぷりあったので、いろいろな実験をしてみた。
皮をピンピンに張ってリムショットをしたらどうなるか。
皮をダブダブに緩めてリムショットしたらどうなるか。
 
そのほか、いろいろなストロークを練習して、
いろいろ試してみて、いろいろなことがわかった。
 
まあそうは言っても、一日では巧くならない。
 
毎日練習する時間と暇と金があれば、そうとう巧くなるのだろうが・・・
そうもいかないのがまた現実だったりする・・・
  
つまり、今日も、セラヴィ、セラヴィと言いつつ、
すでに真夜中。