7.6.2009

ハロー

なんだかつまらないこと
おんなじようなことばかり書いてるから
たまには、面白いこと書きたいんだけど
やっぱり、僕の人生、つまらないらしいから
つまらないことしか書けないらしい。
 
それでも今日の朝は
出勤の駅で人身事故があったらしく
上下線とも不通。
救急車だの消防車だのが何台も来て
駅の構内は人で埋まっていて先に進めない。
 
そんなこと
日常の一コマに過ぎなくて
僕は例えば
そんなことより大切な
美について瞑想しながら
耳には音楽聞きながら
行きかう何百何千という人間の美しさを判定していた。
 
醜い老人は見たくもないから目をそむけ、
カッコつけたエグゼクティブサラリーマンも醜いから見ないようにして
たまに光っている女性が通り過ぎると
なぜかそれを目で追ってしまう。
 
だいたい、そうすると相手は微笑むのだが、
通勤のラッシュなんて、数十秒で通り過ぎてしまうのがお決まりで、
もちろんこんなこと言える訳ない。
 
「ハロー。ユーアービューティフル。アイ アプリシエート YOUR ビューティー
 
そう。
ぼくは美を祝福する。
どんなに醜く、殺気立っているラッシュのホームにいようと、
美以外に見つめるものは何もない。
美以外に祝福できるものは何もない。
 
美的な存在というのは、それ自体が存在の美徳だ。
 
存在していること自体に価値がある。
 
一方、醜悪というのは、存在自体が、悪徳であり、
無価値なのだ。
 
そうじゃないか?
 
だから、醜い人が、例えば電車内で化粧してたりすると
(実際あった話だが、醜い中年のばあさんが目の前で化粧してた)
僕は、「気持ちわる〜」と
聞こえるように口に出してわざと顔をしかめてやる。
 
そうじゃないか?
醜悪というのは一種のマナー違反だ。
 
ん?
なんの話だっけ?
 
そう。
今日一日ということ。
 
今日は、帰りにS君と焼き鳥屋で飲んで帰ってきた。
 
暑いと
なんだか、寝るのも起きてるのもやりきれない。
 
だから、エアコンをガンガンかけて
体が冷たくなるくらいがいい。
 
そして、死んだようにタオルケットにくるまって
瞑想するのだ。
 
たとえば、カリフォルニアの夕暮れや
LAの夜のしじま
 
ここは東京だけど
やっぱり、近くに人を寄せ付けない森だとか砂漠がないと
なんかつまんない。
 
人間が生きていることが
とっても危ないことだって感じさせてくれるような
広大な砂漠の突端のLA
だから、
なんだか夜がとても貴重に感じる。
 
広大な森林の中にいると
(例えば、メンドシノ合衆国森林公園の中)
自分が、毎日している息の一呼吸ほどにも小さく感じられて
とっても夜が神秘的に感じられる。
 
それは、
何万本ものオークの大木が
風に揺れているからだろう。
だれにも見られることもなく。
だれにも聞かれることもなく。
ただ美が
そこに存在している。
人間とはまったく無関係に。