GW2日目

 
 
今日は、石膏と粘土で遊んだ。
 
立体の人体を石膏で型どりしていたのを、型から外した。
これが結構おもしろい。
金づちで叩いていくと石膏の型がパカッと2つに割れる。
(そうなるように計算して石膏を流し込んだのだから当然なのだが・・・)
ところが、中の粘土の形が逆テーパーになっていたため作品がが型から外れない。
(これは、想定外・・・)
しかたがないから、カッターで削って型から外す。
そして後から型の方を石粉粘土で補修する。
部屋中石膏の粉だらけになる。
それをきれいに掃除しながら、今度は油粘土で新しく作った”顔”に石膏を流し込む。
どうやったら、ちゃんと石膏の型が作品から綺麗にはがれるかイメージしながら石膏を流し込むが、
こればかりは、石膏が固まって外してみないとどうなるかわからない。
(今回も失敗したように・・・)
 
それから、気づくと、なんだかクダラナイことを始めてしまっていた。
世界堂で買った少し高い油粘土を100円ショップで買ってきた安い油粘土と混ぜ合わせようと思いつき、
白い粘土と緑の粘土を手でこねて混ぜ合わせる作業を始めてしまったのだ。
そして、それに、2時間以上かかった。
固まった粘土はけっこう硬くて、粘土同士を混ぜ合わせるには小さくちぎって親指で練り合わせないと混ざらない。
混ぜると緑と白がミックスされてエメラルド色になるのだが、ちゃんと混ぜないとまだらなマーブルになるから、
結局、汗を流しながら2時間近くもかかってやっと全部混ぜ合わせることに成功した。
 
まあ、そんなどうでもいいことをやっているのだが、
外見は粘土を必死で延々とこねているように見えるはずだが、
頭の中では、様々な思考が巡り巡っている。
記憶が次々に蘇り、ストレスが蘇り、怒りが蘇り、
それらと粘土とを、親指で押しつぶしながら混ぜ合わせている。
たぶん、無意味でくだらないことだからこそ、それに熱中すればするほど変性意識状態になってくるのだろう。
もちろん、手の筋肉、腕の筋肉が疲れてきて、仕事ははかどらなくなる。
だんだん、視界がぼやけてきて、粘土を混ぜ合わせることが、無意味に思えてくる。
ところが、
それでも無意味な作業に集中し続けていると、だんだんと意識下からコンプレックスが蘇ってきて、
それらが粘土をこねる行為と一体化してきて、熱を帯びてくる。
まあ、自分でしかわからないおかしな行為なのだが、
これが作品を作るとなると、また、一層おかしな意識状態になってくるのだ。
いろいろな記憶が次から次に蘇り、それらのイメージと変性意識状態で対話しながら作品を作っていく。
たぶん、できた作品よりも、このようなわけのわからないプロセスのほうが大切なのだ。
だから、どんな作品ができるかは、言ってみれば二の次なのだ。
それに、絶対に”効率”は追求しない。
そのことが最も大切だ。
まったく”効率”とは逆の方向を向いて突っ走っていく。
有名なアーティストは、”効率”が何よりも大切らしい。
作品をいかに量産できるかが、現代アーティストの条件らしい。
ところが、そんなのは僕の”プロセス志向的偏執狂的非効率的非生産的生産活動”の対極にあるのだ。
だから、くだらないことにこだわる。
部屋が石膏の粉で汚れていると、いちいち指で散らばった粉を集めて綺麗にしながら作品を作る。
つまり、部屋に掃除機をかけることもできないほど、わがアトリエは狭いのだ。
座ったら最後、立ち上がることもできない。
だから、一つの作業をするのでも、そのためのスペースを確保するために、片付けながら作らなければならないのだ。
作るのと同時に、片づけをするというとても器用な作業をしなければならない。
だから、普通の芸術活動の二倍たいへんなのだ。
まあ、このような気の遠くなるような作業ができるのも、GWだからだ。
 
気づくと夜になっていて、シメジのチーズスパゲッティと白菜の中華スープを自ら作って食べた。
これが、けっこううまかった。
 
それから、夜食に、何か月も手をつけなかった頂き物の蟹の缶詰を2缶も食べた。
 
これを喰らうことが、自分にとっての最高のぜいたくなのだ。
 
このようにGWの2日目は過ぎていった。
 
 
お終い。