もう金曜日

もう金曜日だ。
一週間は早い。
光陰矢のごとし。
何もしないうちに終わってしまう。
 
ラウンドハウスのことを思い出したから書いておこう。
メンドシーノ・ナショナル・フォーレストの山の中。
スカイラインと呼ばれていた高い丘があった。
見下ろすと、何も木が生えていない急斜面には枯草が生えているだけ。
そこを一気に駆け下りる。
脚がくるくる回らないと、つんのめってそのままごろごろ体ごと丸まって転がってしまうだろう。
でもその頃の僕はカモシカだった。
斜面を一気に駆け下りることができた。
下まで駆け下りると少し開けた水平の土地がある。
そこにラウンドハウスが建っていた。
その下も更に急斜面になっているが、その斜面には木が生えているからそれ以上は駆け下りれない。
その更に下は川だ。
雨が降らないと水が流れていない。
雨が降ると、どっと水が流れて大きな川になる。
さて、そのラウンドハウスは文字通り丸い家。
山にはモンゴル式のヤートやインディアンのティピも建っていたが、
ラウンドハウスだけは、ちゃんと木で作ったログハウスだった。
透明プラスチック製の窓まで付いていて、中はおどろくほど明るかった。
昼間、そこにいると、日光がまぶしくて気持ち良かった。
そこで、ラマナ・マハリシの本を読んだ。
彼は、「私は誰か」と自分に問い続けた聖人だ。
それまで僕は、彼はたぶん禅僧のように、「私は誰か?」と自分に公案でも仕掛けているのだろうと思っていた。
ところが彼は神秘家だった。
朝、シュリ・ヤントラというアシッドをもらって舐めた昼過ぎ、ラウンドハウスに行ってみると、なぜか誰もいなかった。
中はまぶしいくらいの昼の白光で満ち溢れている。
そこにラマナ・マハリシの神殿について語った雑誌があった。
何気なく手にとって見ると、そこに神殿の間取り図が載っていた。
神殿の奥には祭壇のある部屋がある。
その図を見たとき、僕は一瞬にして、彼の言わんとする神秘主義のとりこになった。
まさに、人間は神殿そのものだ!
燦々と太陽が降り注ぐ中、僕はもちろん朝からハイになっていたし、一日中自由な生活、否、生活がない生活が保障されていた。
つまり、ただ生きているだけ。
それに僕はまだ十代。
若くて恐れを知らない。
どこの山の中だかしらない土地で、犬のように本能的に生きていることを歓んでいた。太陽光線を浴びて。
 
風が吹くとゴウゴウと山じゅうの木々という木々がいっせいに揺れて、その音はまるで潮騒を聞いているようだった。
だんだん都会の生活に馴らされていた本能が自然に回帰してくると、今までなら恐れて身震いしただろう気配ですら、親愛な友のように敏感に感じることができるようになった。それが自然の奥深い懐の中の永遠ともいえる時間の移り変わりの神秘だった。
夜の山は恐ろしかったが、ぼくは恐れなかった。
何も見えない山道を本能で歩いた。
夕方は夕方の匂いがした。
山の斜面に夕日が照りつけると、黄金の時がオークの大木の記憶を呼び覚まし、枯れ葉の上に集まる鳥たちがひと時、夕陽を眺めて無言で瞑想していた。
僕は狂喜して山を駆け廻り、川の斜面を下り、木の上によじ登った。
不思議と女などに興味はなかった。
太陽と、月と、山と、風と、雲と、犬と、木々。
 
ときどき、僕のからだの奥に再び眠ってしまった本能を、今でも思い出すことがある。