ぼくはチベットには行かない

ぼくはチベットには行かない。
 
たとえそこが僕の故郷だったとしても。
 
観光のためにポタラ宮殿に行ったりしない。
 
ぼくはダライ・ラマのファンでもなければ
 
ローマの法王のファンでもない。
 
反共でも
 
マッカーシーイズムでもない。
 
深遠なチベット密教の研究者でもなければ
 
タントラの修行者でもない。
 
でも単純に考えれば
 
芸能人が騒ぐまでもなく
 
国旗を焼いたり振り回したりするまでもなく
 
簡単にわかるはず
 
反米、反グローバリズムと叫んでいる中国が
 
美国と同じことをしていることに
 
でもマックのハンバーガーを食べて
 
コカ・コーラ飲んで車でドライブしている僕には
 
偉そうなことは言えない。
 
熱帯雨林が伐採され
 
サンゴ礁は消滅し
 
深遠な哲学的伝統は破壊され
 
貧しさの美徳は冒涜され
 
株のように売り飛ばされていく
 
観光地の見世物と化したサバンナの百獣の王
 
チップ稼ぎのために詠唱されるチャント
 
そんなとき
 
非暴力を訴えるダライ・ラマは本当に知恵があるのか?
 
つまり
 
小さな暴力は
 
大きな暴力には勝てないから
 
正義を貫き
 
訴えるしかないのか?
 
善人の理性に訴えても
 
善人には力はない
 
かつてのガンジーのように
 
非暴力を貫いたとしても
 
今の腐りきった世の中に通用するのか?
 
今の世の中
 
善人は利用されるだけ利用され
 
金も力もなく
 
ただ生き延びているだけ
 
その証拠に
 
一文無しの平和主義者が
 
アメリカ大統領戦で勝ち残れるか?
 
議員にすらなれっこない
 
それが現実
 
その現実が人間社会の不平等な現実を
 
さらに加速させる
 
ところが現実はリアルじゃない
 
リアルじゃない世界が
 
地球を覆い尽くそうとしている
 
そこでは
 
金のための見世物が繰り広げられる
 
野生でさえ演出された観光資源となる
 
平和でさえ
 
人気とりのためのスローガンとして
 
マスコミで乱発される
 
何が本当で何が偽りか見分けがつかない
 
でも本当は簡単だ
 
路上に転がっている石ほどにも単純で明らかだ
 
同じ人間が
 
自らをカテゴライズして
 
上下関係を作り出していること自体がお笑いの始まりなのだ
 
そんなものがあったら
 
ただちに笑い飛ばすことだ
 
つまり
 
貴族だ皇族だのと言って
 
雨の降る中を
 
高級車で入学式
 
一方
 
金のある成金漢民族
 
チベットの新築のホテルに泊まって
 
チベット人の給仕にかしずかれる
 
電車が止まったのに
 
一時間二時間遅刻したからと言って
 
頭をペコペコ上司に下げる社員
 
そんなにお前ら偉いのか?
 
中央線が変電所の火災で止まったら
 
宮内庁は皇族車を一般ピープル搬送のために解放したらどうだ
 
チベットに行くのなら
 
無一文になって徒歩で
 
ヒマラヤを登るべきだ
 
だからぼくはチベットにはいかない
 
行けない
 
行きたくない
 
行っちゃいけない