”格差社会”について

最近、「格差社会」「格差社会」とマスコミが騒ぎ始めた。
しかし、僕は「なぜ今さら?」と思うのである。
最近、田原総一朗がしきりにTVで毎週のように繰り返している。
マスコミの論調の流行を感じ取っているのだろう。
民主党にしても、自民党に対する政策の独自性を主張するためには、
この「格差社会」ということを問題にするのが一番メッセージ性が高いと踏んでいるのだろう。
 
しかし、一般の論調として言われるように
「小泉経済改革が格差社会を助長した」わけではなく
アメリカン・スタンダードとか、グローバル・スタンダードとか言われている思想そのものが、そもそも「弱肉強食」思想であり、(元々、ダーウィンの進化論から始まった近代西洋思想)であり、弱いものは強い者に利用されて当然の存在というだけの陳腐な資本家工場主奴隷使用型商品生産販売思想であって、何よりも、手段を選ばない“競争原理”が重んじられるアメリカ建国以来の暴力資本主義、の世界的啓蒙普及版に過ぎないことは明らかだろう。
したがって、ブッシュの父がイラク戦争で勝利して初めて口にした(口を滑らせたか・・?)
ニュー・ワールド・オーダー」とは、ごく一部の国際グローバル多国籍企業が、アメリカという国家(すなわちアメリカの市民が払った税金で作られた世界一のナショナルな軍隊を操る政府の)中枢を占める政治家を買収し、または、軍需産業役員が政府の中枢にそのまま就任し、企業のために世界戦略を立案し、原爆、第三の核兵器、最新テクノロジー兵器を有する最強の軍隊を動かし、脅し、“市場原理”という名の“シンジゲート”に組み込むことによって、全世界の“富と権力”をほんの一握りの“エリート”によって支配しよという、隠れた配者者によって立案さた世界戦略のことなのだ。
 
もちろん、、“自由経済”を標榜し、サッチャーレーガンの経済改革を真似て、10年遅れた日本式ビッグ・バンを志向した日本の“市場原理主義経済学者”とそれを担いで経済改革を行った(?)日本の小泉政権は、結果的にはブッシュ父子政権の異のままになっているだけの“ニューワールドオーダー”の群れに尻尾を巻いて付いていくだけの負け犬でしかなかったのだが、それを小泉政権のオリジナルな政策だとするような論調で、「格差社会」を論じていても、民主党プロパガンダに乗る効果はあっても、それ以外、何の意味もない、と僕は思うのだが。
 
それよりも、インドのしたたかさを見よ。また、ヨーロッパ、中国の政治家を見よ。
広く世界を見るとは、“アメリカの現政権”だけを視野に入れていることではない。
“卑屈な犬の群れ”に入ることだけが、生き残る術の全てではないだろう。
強大なボス犬が、意のままに食料を分配しようとしているとき、負け犬なら、尻尾を巻いてボス犬に媚を売り、少しでも多くの餌にありつこうとするだろう。しかし、あからさまに尻尾を振って付いていく日本政府は、もはやカートゥーンのお笑いネタでしかない。
少しは、それに対抗するような“思想”や“哲学”や“ゲイジュツ”が生まれて来てもいいはずである。
例えば、ヨーロッパに見るようにスローライフとかエコロジーなど、まったく無力で何の力にもならないかもしれないが、そのような思想が、ファーストフードや地下資源採掘争奪戦争に対抗する思想として生まれてきたことは確かだろう。
政治を論じるとき、“リアリティー”ということだけが殊更強調される。
田原総一朗の司会をする政治討論でも、ことさら“現実的”な“スケジュール”だけが執拗に問われる。
しかし、それだけでは、“小ざかしい現実主義者”だけでは、なにも新しい政治は生まれてこない。
本来は、政治を動かす“思想”をこそ問うべきであり、“思想”の元となる“理想”を問うべきであり、論争すべきであろう。
しかし、“理想”は非現実的だとして一笑に付される。
そのような言論界がマスコミで流布されているような社会にあって、我々は(否、私は)、マスコミに流される論調に、アメリカンスタンダード以外の“現実的”“リアルな”思想を読み取ることができない。逆に言えば、それのみを流布しているとしか思えない今の放送業界の貧困と体たらくしか目につかない今日この頃なのである。