ネイティブ・アメリカンとグローバル・アメリカン

グローバル化したアメリカンは、いまや世界のどこにでもいる。
一方、ネイティブ・アメリカンは今やインディアンに限られたことではないとわたしは思う。
ビートやヒッピーはネイティブ・アメリカンだし、実験音楽をやったケージや、アクションペインティングをやったポロックも、今やネイティブ・アメリカンと称したい。
一方、グローバル経済でコンペティションを正義とするグローバル・アメリカンが日本にも生息するようになったし、ヨーロッパにも中国にもロシアにも生息するようになった。それらは多国籍の大資本を理想とするいわば非職人的コマーシャリズムの商人であって、モノを生産するネイティブをいわば買収する。工業規格文化は、グローバル・アメリカンの台頭によって、世界中に蔓延しつつあり、マニュアル化された彼ら彼女らのプロダクトは、カタログ化され、世界市場に出回りつつある。しかし、彼らはこぞって、近代国家の信奉者であり、それゆえに、浅はかな歴史観しか持たない国粋主義者である。
それは、アメリカの建国以後の歴史が、近代以降の歴史しか持たないことに起因する。グローバル・アメリカンは、日本でも、明治国家以後の歴史観しか持ち合わせていないため、脱亜入欧の歪んだコンプレックスに支配されたまま、明治期に作られた国家観に未だに固執することが、国家のアイデンティティーを維持することだと、未だに信じ込んでいる保守主義者たちである。しかし、彼らをグローバル・アメリカンと呼ぶことは、間違っていないだろう。もともと、アメリカ建国の思想は、その後のフランス革命の自由、平等、博愛の精神の元になったものと同一のフリーメーソン思想だから。
しかし、最近、この3つのうち、“自由”しか叫ばないのが、グローバル・アメリカンの特徴である。彼らの“自由”とは、“自由競争”を意味する。それは、相変わらず、植民地支配の地下資源の争奪のための侵略戦争を正当化するスローガンであり、フリーメーソンの他の2つの理想、“平等”と“博愛”は、自由の元に踏みつけられている。
ということで、世界的に、このグローバル・アメリカンが台頭し、グローバル・アメリカンな文化が世界を席捲しようとしているとき、ネイティブは、ひたすら、非グローバルな経済性を追求しなければならなくなってきている。
それもいいだろう。
いずれ、化けの皮が剥がれるのが、グローバル・アメリカナイズされたものの宿命である。
でなければ、ネイティブ・インディアンを虐殺して建国したアメリカ合衆国のカルマは解消されないではないか。
ということで、今や世界の中心となり、パックス・アメリカーナとなった新世界秩序の中で、グローバル・アメリカンの市民権を持たない奴隷階級は、なんらかの形で抵抗することが求められている。それは、一方では、“平等”であり、一方では“博愛”かもしれない。しかし、いづれにせよ、自由競争の名の下に成り立つ階級社会の下では、奴隷には、真の“自由”など決して与えられないのである。