世界平和の続き

先日の続き。
要するに、僕が言いたいのは、殺人傷害で最大のものは、戦争だということ。
どんなサイコ・キラーだって、異常な連続殺人犯だって、
罪もない女子供に放射能を無差別にぶちまけたりしないだろ?
戦争になると、実際、米国はアフガニスタンイラクでそれをやった。
それは、明らかに基本的人権の侵害、いや、それ以上の残虐な殺しであり、
国際法上の罪であることは明らかだ。
しかし、国家による犯罪は、現在のところ、誰も裁けない。
それが超大国のスーパーパワーが行ったことなら、なおさらだ。
なにか、とても矛盾していないか?
 
国家権力によって“戦争”が行われるとき、
民衆は“国民”として、“殺人”に借り出される。
そこで行われた“殺人傷害行為”に対して、やられたほうは、誰も、どこにも告発できない。
唯一、戦争に勝つことによって、相手に賠償を要求することは可能だろう。
しかし、それも“国家”のレベルであって、“民衆”のレベルではない。
しかし、国連憲章は、そのような国家権力による“犯罪”の悲惨さ、泥沼の反省から、
国家権力を規制し、監視するための目的で制定された、いわば“憲法”のようなもの、
のはず。
しかし、実際には、それを強制するだけのパワーはどこにもない、“理想”なのだ。
しかし、この人類共通の平和という“理想”を、
それがなんら、現実的な拘束力が無いからといって無視できる権力者はこの世にいないはず。
この“憲法”は、権力者を裁くためのものであって、民衆ためのものなのだ。
しかし、その“憲章”をも、権力者がいいように解釈して、戦争を“自衛の為”
と称するとき、その“侵略行為”を正当化する学者は、
御用学者以外の何者でもないということ。
それが、先のレポートに書きたかったことである。
  
僕の理想は、国境がなくなること。
そうなれば、世界から殺人のための一切の兵力が不要となる。
しかし、世界中が丸腰になったら、小数のものが武装して侵略してきたら
あっという間に世界が支配されてしまうだろう。
ということで、世界は、警察国家のように、
何らかのスーパーパワーを有する機関が監視する必要がある。
しかし、そのスーパーパワーを掌握するものが悪意を持ったとき、
いったい誰がそれを阻止できるのか。
 
またしても堂々巡り。
だから、各々、国は軍備を増強し、国境を守ろうとする。
しかし、国境を守って、領土を守り、資源を独り占めするために、
“国”として、戦争をしなければならないとしたら、
それは、今までの人類の歴史上、ずっとずっと繰り返されてきた
戦争による領土拡大の権力者の支配の構図が、永遠に繰り返されるだけの話。
 
しかも、戦争を始める理由の全て、と言っていいくらいほとんどなのが
“自衛のための武力行使”。
だから、一度、民衆が権力を裁く力を制度化したらどうだろう。
戦争を決定した権力者の動機をきちんと、客観的に分析するのだ。
そして、“自衛のための武力行使”がただの口実でなかったかどうか、
きちっと検証するのだ。
また、自衛のための武力行使なら何をしても許されるというものではないはずである。
そこで行われた、非戦闘員、すなわち、女子供への虐殺に対しては、
それを行った責任を有する権力者が裁かれるべきだ。
勿論、賠償も行われなければならない。それも、私費がいい。
だいたい、米国が戦争を始めなければほとんど戦争は行われない。
米国の大統領は、大実業家であり、資産も有している。
また、どこの権力者でも、戦争を始めるものは、資産家である。
また、資産家に利用された将軍であろう。
 
実際の人権の抑圧に対して、難民を受け入れることができなければならない。
国民は、人権が抑圧されたとき、その国家を離れる自由を有する。
国境が無ければ、独裁者が国民を洗脳し、自らの富と権力のために
利用することもできないだろう。
また、国家権力によって、意のままに国民を戦争に借り出すことも出来ないだろう。
 
そのような“理想”をこそ、行動の基準にすべきではないか。
“現実”を基準にして、どう立ち回るかが“リアリスト”だというなら、
彼らには未来は、ない。
より強いものが正義となる、倒錯した世界で、殺し合いを永遠に繰り返すことが、
“現実”だとして、それに甘んじているなら、
彼らの“永劫回帰”は、永遠に“悲惨”と“死”のみである。
 
ニーチェ先生は、すでにそれを思ってあんなにニヒルになって、
終に“神”になってしまった。
彼の思想を理想とするなら、まず、天上に輝く正午の太陽を理想とすべきだろう。
そこに一切の“差異”は無くなると、ツラトゥストラは言った。
実際、持てる者と持てない者の差異によって、
奪おうとし、より奪おうとし、一切合切を奪おうとする。
奪われるものは、奪われ、より奪われ、更に奪われる。
それが、人類史上の偉人達の歴史であり、国家の歴史ではなかったか。
それらを賛美する“国民”は、狼を賛美する子羊の群れの中の一匹である。
せめて、賛美したり、へつらうことだけはやめにしないか?
自分が食べられなくても、狼は羊を食らう。
それくらい認識して、目を開けて、囲いの中で群れていてもおかしくないはずである。
 
しかし、いずれ、人知を超えた知恵が、ニヒリストの自虐すら、笑うときが来るだろう。
 
それまでは、“理想”を理想として抱いていることを基準としていたい。
 
そんなことを考えていた。