今日でおしまい、昨日は?

今日、前期の授業が全て終了した。
レポートも提出した。
 
ごくろうさま。自分。
 
誰も言ってくれないから。
 
働きながら夜学ってのも、やはり、たいへんだ。
でも、好きでやってるから、しかたがない。
あと1年半で卒業だ。
 
今期は、フーコーの『言葉と物』のレポートに力を入れた。
第一章「侍女たち」について書いた。
ベラスケスの傑作の「侍女たち」だ。

あれほどの傑作。
たった一枚しかない。
17cにしか描けなかった。
ベラスケスにしか描けなかった。
そう思うと不思議だ。
フーコーは、言葉で絵を語っている。
たいしたもんだと思うが、
どんな思想よりも、
ベラスケスの一枚の絵画のほうが
よっぽど貴重な気がするのは何故か?
 
さて、学校も夏休みになったので、
これから絵を描こう。
 
先日、安い布切れを大量に仕入れた。
それを1m80cmの長さに切った。
両端をチクチク針と糸で縫ってほつれないように、
一枚だけできている。
あと何枚あったっけ?
絵を描く前の下準備が大変だ。
それに絵を描こうと思っている。
 
それにしても、19cの絵画を画集で見ていた。好きだ。
セザンヌマチス
ダリは、セザンヌのことを小ばかにしていたが、
セザンヌも捨てたもんじゃないと思った。
誰かが、セザンヌの評論をしていたのを読んだ覚えがある。
ポーカーをする人々。
その人たちのことを言葉で書いている。
でも、セザンヌの絵は、“文学”じゃない。
ぜんぜん違う。
その評論は、ぜんぜん意味がない。
セザンヌは、絵の具の色、マチエール、筆遣いに意味があるのだ。
ポーカーをする人々に意味があるんじゃない。
それを文学的に言葉で書いても、それは立派な評論だろう。
でも、その文字の連なりは、まったく無意味だ。
セザンヌとはまったく無関係だ。
 
そんなことを思い出しながら、セザンヌを見ていた。
 
彼のマチエールを
 
色を
 
塗り残したキャンバスを
 
それから、クッキとクレメンテを引っ張り出してきて見た。
 
マチスを引っ張り出してきて見た。
 
現代のニューペインティングと100年前のニューペインティング。
 
100年前のほうが、いい。
 
クレメンテには悪いが・・・
彼に「Your ペインティング イズ ザ ベスト イン ザ ワールド」
と言った自分だが、
確かに、ファンだが、
もっといい絵を僕が描く・・・
かもしれない。
 
確かに、バスキアもいい。
シュナーベルも最高だ。
 
もうあれ以上のペインティングは、現代では描けないかもしれない。
 
もう、誰もペインティングしていない。
 
でも、まだあるはず。
 
まだできるはず。
 
そう
 
自分が乗ったとき
 
集中して
 
手が勝手に動きはじめるほどのめり込んだとき
 
オリジナルが生まれるかも
 
でも、そこまで入り込めなかったら・・・
 
ゴメンナサイ
 
見たことのあるような絵で止まってしまう。
 
すでに見た絵の記憶
 
それの下手な二番煎じ。
 
それだけはしたくない。
 
だから、セザンヌをずっと見ていた。
 
彼の色彩。
描画法。

彼のオリジナル。
 
見てた。
 
マチスも。
 
そしたら、
 
眼をつぶったら光が交錯し出した。
 
やばいと思ってやめた。
 
緑の光。
 
色々な光。
 
眠れなくなった。