アートって何? 吉田君

そう、COBUでの展示の初日に来てくれた吉田のことを書くのを忘れてた。
吉田は、高校の同級生。とてもいい男だ。元ラグビー部。COBUのあるパールセンターにあった八百屋の5人兄弟の長男。頭は抜群に良く、スポーツも万能、根性もあるし、優しさもある男。今どき、こういう男はめずらしい、貴重な存在だ。
彼は、大学に進学しなかった。それだけの頭があっても。そして、イトーヨーカ堂に勤めて以来、今まで、その仕事一筋に続けている。イトーヨーカ堂にはもったいない人材だと思うのだが・・・私とは大違いだ。
彼は、高校時代、戯曲を書いたり、詩を書いたりしていた。ラグビー部員にしては、繊細さも併せ持っている。才能があると僕は思っていた。だから、好き勝手な批評もさせてもらった。
だいたい、僕は、他人の作品を悪くは言わないのだが、好き勝手な批評をすることもある。それが相手にとって不愉快に感じることはわかっていても、あえてそうすることがあるときは、たぶんマゾ的感覚でそうしているのだ。
彼は現在、自分の作品を書いたりしているのだろうか? だいたい、社会人というものになると、それ以前、趣味で書いていた詩や文章などをすかっり忘れてしまうのが世の常だ。そして、そうしたことをまた始めようなどと思うことすら、なんだか気恥ずかしくなるものだ。ましてや、それを誰かに見てもらおうなどとは思わなくなる。だから、若い頃に自分で密かに詩を書いていたとしても、戯曲や小説を書いていたとしても、批評や論文を書いていたとしても、社会人というものになって仕事で忙しくなると、すっかり自ら何か書いたり描いたり、歌ったり踊ったり、なんでもいい、何か表現することを忘れてしまう。だから、僕は手厳しく批評したりする。そう、葉っぱをかける意味で、お前も文でもなんでも書いてみろよ、と。多分、面白い作品が出来上がるはずだ。
僕は今、若い学生に混じって学校に行っている。だから、若さというものを意識する。若いんだから気取らなくていいじゃないかと思う。何でも表現してみろよ、と。それがかっこ悪くても、やることに意義があるんだ。それが青春だ、と。うまくなるまで練習して、それから発表しよう・・・なんていうのは、もう死んでるゾンビだ。いくら練習したってうまくなんてなりゃしないよ。気合だ!パワーだ! と。 と言うと、おじさん呼ばわりされるし、そういう議論はクサイしつまんないと言われる。 それで結局みんな評論家になる。いっぱしの評論をこいて自分では何も表現しない。それじゃつまんないだろ! そうじゃなく、やってみようよ。 ということで、こんど、若いのと一緒に、なんかやりたいと思っている。
奴らはいくらでも時間があるが、僕には時間がないのだよ。
おじさんは、体力も衰えているし、働いてもいるから、時間がないのだ。
でも、もしかしたら彼らよりも私の方が若いのかもしれない。
紫さんは、高校生みたいに純粋ですね。なんて言われたこともある。
そうなのだ。精神は年をとらない。
だから、みんな、しらけたふりなんかしてないで、一緒にやろうぜ!
なんでもいいからさ。
いいかい、徒党を組もうてんじゃないぜ。そいつが一番嫌いなのはこの俺だ。そうじゃなくて、恥ずかしがらずに、いや、恥ずかしがりながら、なんでもいいから、非実用的な、非経済的な文化活動をしようよってこと。
そうじゃなければつまんないじゃない。
メジャーのおんなじような曲聴いて、小説読んで、漫画見て、映画見て、消費するだけじゃつまんないでしょってこと。それで、評論家になって酒飲んで議論したってつまんないよ。それよりか、ギターでも持ってきて歌ってくれよ。詩でも書いてきて詩ってくれよ。絵の具でも持ってきてぶちまけてくれよ。
そんな場ができたら、NYやベルリン行かなくても済むのにね。ここでも。