アートについて

昨日、現代美術アーティストの三田村美土里ちゃんがcobuに来てくれた。
会うのは、2年ぶり。一昨年、cobuに来てくれたとき以来だ。
夏から、文化庁の後援で、フィンランドに1年間行ってくるという。
ヨーロッパで、現代美術の作品を発表するらしい。
サウナに入れていいねと話した。
美土里ちゃん、僕のCDを買ってくれて、ありがとう。
彼女は、ベルリンで作品を発表している。
僕も、いつかベルリンで作品を製作したい。
誰もいない倉庫で、5mくらいの極彩色の絵を描きたいと夢みている。

今日は、高校の同級生のジオネが来た。
帰りに、レジで奴のコーヒー代まで払わされた。
見に来てくれたから当然ということだろうか?
奴は社長で、金持ちなのに。
美土里ちゃんは、コーヒーを2杯も飲んで、自分で払ったのに。
だいたい、貧乏人ほど気前がよく、金持ちほど、細かい。

昔、アンダーグランドアーティスト・AKIRAが、相ちゃんに、マジで
「10円貸してくれ」と言ったことが、大うけして、代々語り継がれる伝説となったが、
確かに、”アーティスト”と名のつく者は、だいたいが苦しい金銭状態を体験している。
”アーティスト”と言うと、現在は、何故か音楽関係に使われるが、それは本来、邪道である。
歌手、とか、シンガーソングライターと言えばいいものを、最近”アーティスト”呼ばわりしているのには、違和感がある。
だいたい、日本には、そもそもアートが存在しないためだろう。
視覚芸術におけるアーティストがいない。
村上隆はアーティストだろう。
美土里ちゃんもアーティストだろう。
一応、ヨーロッパやニューヨークが認めたということで・・・。
しかし、視覚芸術の分野でも、本来は、画家とか写真家、ペインターとか、パフォーマーと呼ばれていた者が、現在では、例えば、”フリーター”とか”ニート”と呼ばれるだけの存在に成り下がり、アーティストという呼び方すらされない東京の現実。
日本では、経済の尺度で、人間にレッテルを貼るからそういうことになる。
だから、レコード会社からCDデヴューしたものが、アーティスト呼ばわりされるのだろう。
ということで、日本のアートシーンは、お寒い状況であり、ヨーロッパ、ベルリン、ニューヨークに行って一旗上げて、逆輸入というのが、現在、アーティストとして認められる条件なのかもしれない。

多分、これらの事情は、ギャラリーや美術館関係者が握っている。
美術は、デュシャン以後、ギャラリーでインスタレーションするものに変貌してしまった。
そして、コンセプチャルを経て、ボイスやクリストによって、美術館やギャラリーすら離れ、イベント、パフォーマンス、そして、政治にすらなってしまった。
そして、キューレターによってコンテクスチャライズされた現代美術のインスタレーションが主流になった現在、アートもまた、グローバル・スタンダードによって消費されるビジネスに取り込まれつつあるように見受けられる。

だから、小さな喫茶店で、自分でDMを刷り、友達に配ってコーヒー代を払ってまで見に来てもらうような“絵画”の展示など、化石化したペインターのなれの果てと同情を買うだけの行為なのかもしれない。
しかし、それがまた宿命でもある。
発表しないで絵を描いているだけで、自分では満足なのだが、それも“マスターベーション”だと非難される日本のギャラリーに対しては、たまに、誰のために描いたのでもない作品を人様に見せて、こんなことをやって一銭にもならない時間を消費しているということを広く身近に認識してもらうサービスも行わなければならない。
そして、そうした作品を発表させてくれる場を、無料で提供していただける貴重な方がいらっしゃる限り、既に製作してしまった作品を展示することは、アーティストの宿命でもあるのだ。

ということで、これから、さらに現代のアートシーンやアートビジネスについて考えていきたいと思っている。