ダ・ヴィンチ・コード

 先日、友人から「ダ・ヴィンチ・コードのTVやってるぞ」と電話が来た。
 さっそくヴィデオに撮って、次の日にコマーシャルを早送りしながら見た。

 内容は、ダヴィンチの「最後の晩餐」に描かれているヨハネは、本当はヨハネではない。
 女性であり、横にいるペテロに刃物で脅かされている。
 ダヴィンチは、あえて、絵の中に女性を描いた。
 その女性とは、マグダラのマリアだ。という内容。

 聖書では、マグダラのマリアは娼婦であり、
 道で男達に石を投げつけられているのを見たイエス
「自分で罪を一度も冒したことのないものは、この女に石を投げるがいい」
 と言って、救ってやった女だ。

 しかし、1968年、ローマ教会は「マグダラのマリアは娼婦ではない」と
 正式に発表したという。

 だとするなら、今日まで、聖書の物語は、ローマ教皇によって
 偽造されていたことになる。

 実際には、イエスマグダラのマリアと結婚していて、子供まで儲けていたという。
 しかし、その後のキリスト教会の男尊女卑の権威によって、その事実は、隠蔽され、
 キリス教は、禁欲的、権威的、男尊的になったという。
 他でもないペテロは、ローマの初代教皇であり、彼によってマグダラのマリア
 闇に葬られたという。
 しかし、“シオン”という秘密結社によって、キリストの血脈は代々守られ、
 今日まで、その子孫が続いている。
 そして、キリストの末裔だという人物まで、番組に登場した。
 
 

 誰でも、教会を知っている人は、そこに、いくばくかの“偽善”を感じたことが
 あるのではないか?

 僕は、物心ついたときから近くの教会に通っていて、教会を遊び場のようにしていた。
 最初に行ったのは、3才のときだった。
 会堂の正面にある十字架を見て、
「あれはなに?」
 と母にしつこく問いただしたのを覚えている。
 僕は、こう言ったのを覚えている。
「あの裏には、だれがいるの?」
 十字架の裏の壁の中に、だれかがいるような気がしたのだ。

 純真な子供の頃は、キリスト教会は、まさに光に溢れる精霊の館だった。
 しかし、自分自身が天使でなくなるころになると、
 教会の“偽善”的なものが鼻につくようになった。
 他でもない、それは“禁欲的”であることだ。

 そんなものは嘘っぱちだと気づいた。
 そして、涙を流して“神さま”に祈る輩を、おめでたく感じるようになった。
 思考停止状態であり、自己催眠的であり、偽善的だ。
 ある意味で、本当に純真な、知能の低い人にとっては、それは真実だろう。
 しかし、ある程度知性の発達してしまった脳を持っている人にとって、
 それを“信じる”のは、自己欺瞞にしかならない。

 しかも、キリスト教は、イエスの教えそのままだという保障はどこにも無い。
 むしろ、ローマ教会の、“権威”によって、代々、血塗られた“異端審問”に
 よって守られ、強化されてきた、偽善であり、偽造であり、富と名誉と権力であり
 それに騙され、洗脳される、ありとあらゆる“宗教”と、なんら変わらない“心理学”
 だと思うようになった。

 話しが脱線してしまったが、
 僕も、マグダラのマリアは、娼婦だと思っていた。
 しかし、ひそかに、イエスは、その娼婦を愛していたのだと“確信して”いた。
 精神的にも肉体的にも。
 だから、マグダラのマリアに対して、とてもイマジネーションをかきたてられた。
 だから、全裸のマグダラのマリアの絵を描いた。
 本当は、キリスト教は、とてもエロティックなものだ。
 サロメヨハネもしかり、イエスとマグダラもしかり。

 ローマ教皇がマグダラを娼婦だと言っておとしめた結果、かえって逆に、
 僕は、イエスとマリアは、セックスしていただろうと想像した。
 イエスは神の子として、人間的な“穢れ”を一切していない、とは、思わなかった。
 もしかしたら、こうした想像は、僕だけではないのかもしれない。
 ドフトエフスキーのカラマーゾフにも、そんな想像が働いているのかもしれない。
 そして、“禁欲的”教会の権威を、かえって“不気味で気持ちの悪い”ものと
 感じ、“偽善的”だと感じた。
 
 そのマグダラが、ヨハネと入れ替わって描かれているのが、ダヴィンチの
 最後の晩餐だという。

 ダヴィンチにしても、ミケランジェロにしても、当時のローマ教会の権威に対して
 “従順な子羊”では決してなかった。
 彼らは、教会の権威に翻弄され、利用されはしただろう。
 しかし、本当の芸術家が、“禁欲的”になることはあり得ないのだ。
 なぜなら、性こそ、生のエネルギーの源であり、表現の、そして、創造の源
 に他ならないからだ。