『ブレイン・クリーナー』

『ブレイン・クリーナー』(脳内清掃音楽)をパソコンでMIX DOWNした。
とは言っても、誰も聞いたことが無いはずなので、まったく私的な出来事だ。
 
この曲に匹敵する音楽は、歴史上次の2つしかないのではないかと、勝手に自負している。
その2つとは・・・
 
ニーチェが嵐の夜に即興で弾いたと言われる『ピアノ曲
グルジェフが“オクターブの法則”に基づいて作曲した『ピアノ曲
 
①は、当然録音など残っていないので、誰もそれがどんな曲なのか知らない。
しかし、だからこそ一層、想像力をかきたてられる。
自らツァラトゥシュトラ=神になったニーチェ
彼は真昼間の天頂の太陽を浴びて、自らの影が地上に落ちないのを悟ったとき、人類と決別した。
その彼が、しかし、人類を愛する故に“山”を降り、そして、嵐の夜に即興で弾いたと言われる、“雷鳴の轟きのようなピアノ曲”。
たぶん、この曲に匹敵する“芸術”は、ニジンスキーが“薔薇の精”を演じたとき行ったという、“超人的跳躍”以外にはないだろう。
ニジンスキーの“跳躍”も、今では誰もそれを見た人はいない。
また、彼もニーチェと同じように“神”になった。
 
②は、実際にその録音を聴いたことがある。
それがどんな“魔術的”音楽か、相当に期待して僕は、(当時テープだったと思う)再生のボタンを押したのだが、それは“想像”していた“期待”を“見事に”裏切るものだった。
いかにもグルジェフらしい。
我々のどんな“期待”をも“見事に”裏切ってくれる。
さすが、“ずるがしこい第三の道”の提唱者だけのことはある“音楽”だった。
なるほど、それは、“オクターブの法則”や“グルジェフ宇宙論”を数学的に表現した“客観芸術”であり、音楽こそ宇宙法則を現しているとしたグルジェフの深淵な哲学を感じさせるものではあった。
しかし、同時に、音楽における情緒表現を一切排除した、“感情のセンター”をまったく無視した、“知性のセンター”のみで作曲された音楽だったので、感情的な僕には、正直、退屈だった。
 
神秘学では、感情は“アストラル”の領域に属する。
そして、しばしば“アストラル”は、“スピリチュアル”な領域より“下位”に属するとされ、軽視されがちだ。
しかし、“アストラル”こそ、この世の“現実”とパラレルに存在している“想像世界”であり、それを無視して、いきなり“悟りの世界”(ブッディ界)に参入しようとしても足元をすくわれるだけだろう。
グルジェフは“客観芸術”を好んだ。
でも僕は、あくまで“主観芸術”を好む。
数学の法則よりも、ニーチェの狂気に“芸術”を感じる。
突き詰めるならば、“芸術”は、“狂気”なくしては“創造”され得ないのではないか?
そして、そのとき、“創造”は“想像”であり、“セックスエネルギー”と結びついている。
性欲が増すと、“想像力”も高まる。
人間は“想像力”によって“発情”する動物なのだ。
そして、この“想像力”は、“アストラル界”を“創造”する。
つまり、“空想力”のない人間は、“アストラル界”が現実とパラレルに存在することを“想像”もできないだろう。
彼らは機械的な“器官的なセックス”をするだけで、当然、“精神的感情的狂気”とも無縁だ。
 
ということで、長くなってしまったので、このへんでやめにしよう。
『ブレイン・クリーナー』は、アストラルのキーをリセットするように聴覚によって音の相互関係を時間的に独自の“想像力”によって紡ぎ出し、その“意味”を無意識のうちで“創造”できる人にのみ“有効”であり、“理解”される音楽だ。
言ってみれば、この曲の聴かれ方は、“脳のアストラル的強度”によって左右される。
それを“雑音”とだけしか認識できないない人、それを“芸術”だと認識する人、“アストラル強度”によってさまざまだろう。
それを今まで意識的に、また、無意識にでも、鍛えてきた人は、この曲を“聴く”ことができるだろう。
音そのものに“共感”するとき、それは“聴こえてくる”だろう。l
そして、一定の閾値を超えると、脳は“眠り”、聴覚だけが働いている状態に達する。
そのとき、音そのものに何の“意味”もなく、ただ“聴こえているだけ”という意識状態を体験するだろう。
そのとき、私の“アストラル界”すなわち、“想像界”は、“リセット”されたのだ。
 
37分39秒。
何度もループして聴く気がある人は、たぶん皆無に近いだろう。
しかし、それでも聴きたいという人がいたら・・・
 
万一。
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そのとき考えよう。