芸術について考えること
Life is very short and there is no time. と歌ったのは、ジョン・レノン。
本当に1日は短く、何もまとまったことができない。
朝8:30には仕事に行き、そのまま6:00には学校、夜10:00に帰宅する。仕事も、学校も、自宅でやることも忙しい。
僕は、今、早大の二文に通っている。表現・芸術系専修は、ほとんどどんな科目でも選択できる。本当に自分の意志で勉強したい人にはお勧めだ。
僕は、20代の若者に混ざって、一人孤独に夜のキャンパスを歩く。僕が20代だったら、絶対にやっていないだろうことを今やっている。その頃だったら、万一大学に合格していたとしても、どんな授業にも満足できず、すぐに大学に行かなくなっていただろう。実際、僕がその頃やっていたことは、今の学生を見る限り、彼らよりもぜんぜんスリリングなことだったように思う。
人生は、自分の思ったとおりに展開するものだ。
僕は僕の環境にいたのだ。
しかし、現在にいつも不満を持っているのは何故か?
今だって、もし、仕事をしなくても食べていけるだけの金があったら、どんなにいろいろなモノを創造できるだろうかと思う。
音楽、美術、文章。そんなモノを創造していたいと思う。
しかし、現在は、それらを、ほんのわずかな時間の隙間で、忙しく作っている。
たぶんそれらは、ビジネスにはなり得ないシロモノだろう。と言うか、ビジネスにはなり得ないシロモノを創造したいとも思っているのだから、しかたがない。
大学での勉強でもそうだ。文献にあたり、知識としての“宗教”や“芸術”を習得している。いわば、文献としてアカデミーが認めた“権威”を“事実”として理解し、それ以外は、あたかも“未検証”の“恣意的”“感想”の部類だとして認められない。
しかし、そもそも、宗教でも哲学でも、それまでの文献を解釈するだけで成立してきたものだろうか?
たとえば、宗教家が受けたという“啓示”は、何によって“承認”されただろうか?
アカデミーの“権威”によってだろうか?
古い宗教権威によってだろうか?
キリストが神について語ると、あなたは何の権威でそれらのことを語るのか?と立法学者は非難した。
同じことが、芸術にも言えるのではないか。
20世紀の芸術は、みんな初めは笑いの対象だった。
これが何故美しいと言えるのか? その根拠は何か? と、人々は問いただす。
しかし、それが“美しい”と、時間が経つにつれ、見えてくる。
そして、それらが、新しい芸術として残っていく。
しかし、それらは、すでに“新しく”はなく、生まれ落ちた瞬間から“古く”なっていってる。それが創造されている時こそ、一番新しく、美しいのに、誰もそれを見ようとはしない。既に死んで、誰かが認め、一つの形骸化した“権威”になってはじめて、それらを認める。しかし、それらはもう既に死んでいる。
Life is very short.
そして、死んだもの、死に下がった“権威”は、何も新しいものを生み出さない。むしろ、自己保全のため、新しく生み出されるものを排斥する。
常に変化してやまないものを認めると、現在が不安定になると恐れているのが、既に死んだ“権威”の考えることだ。
それ自体、安定は、美徳かもしれない。
しかし、どうだろう? 天体の運行にしても、未来永劫変化しないはずはない。何事でも固定してしまえば、それは死も同然なのではないか?
だから僕は、常に現在に不満なのかもしれない。そう思って自分をなぐさめている。