脳と心について

ドイツ文化研究レポート
(脳と心のモデルの図は、ブログ上では表示されていません)


1. 脳と心の二元論

 てんかんの治療のため、脳の外科的な切除手術を行い、また、脳に直接電気刺激を与えて、患者の反応を世界に先駆けて観察したワイルダーペンフィールドは、著書『脳と心の正体』の中で、“脳と心の二元論”を提唱している。(注1)
また、ノーベル医学・生理学賞を受賞した脳研究者であるジョン・C・エックルスも、著書『脳は心を超える』の中で、“脳と心の二元論”を提唱している。(注2)
両脳研究者とも、心は脳の働きに全て還元され得ないと主張する。しかし、今日、一般的には、脳が破壊されたら、つまり人間が死んだら、心も消えてなくなると考えるのが“科学的考え”だと未だに信じられている。また、前述の両脳研究者の“脳と心の二元論”を老人性痴呆の思想とまで揶揄する向きもあるようだ。
大脳生理学は、ペンフィールドやエックルスの時代から、さらに進んだ研究がなされているようである。例えば、ニューロンシナプスでやり取りされる“神経伝達物質”の存在が明らかになり、その分子構造も解明されている。(注3)しかし、自称‘自然科学者’(その中にいわゆる‘唯脳学者’も含まれる) が、心は脳神経の電磁気的作用及び、ペプチド・ホルモンの化学的作用によって生じたものであり、それ以上のものではないと、臆面もなく声高に主張する根拠は、物理学を頂点とする真理を解明する方法が、唯一かつ最も客観的科学的方法だと信じて疑わない古い自然科学的世界観に基づいていると思われる。しかし、そのような古い“思想”が未だに知的な考えだと錯覚し続けている学者の権威は、既に過去のものとなっている。(注4)
 ペンフィールドは既に1950年代に、脳神経のまさに電磁気的実験によって、唯物論的一元論とは全く違ったモデルを導き出した。それが、“脳と心の二元論”である。
彼は、脳の働きを化学的電磁気的に説明できないと言っているのではない。そうではなく、この脳を操作している“主体”は、脳の電磁気的働きによって生じているものではないと言っているのだ。この主張は、唯物的一元論者の還元論よりもはるかに論理的であり合理的であり、現実的であると私には思われる。以下にその理由を述べてみたい。


2.“私”ではない

 ペンフィールドは、患者の脳に直接電極を当て、何が起きるか実験した。その結果、ある部位に電極を当てられた患者は、自分でも忘れていた記憶を鮮明に思い出したという。そして、それは自分が思い出したのではなく、「先生(ペンフィールド)がそうさせたのだ」と患者は主張したという。また、脳のある部位に電極を当てて声を出させたとき、患者は、自分が声を出したのではないと認識していたという。(注5)
もし、“私”という主体が、脳の電磁気的物理学、化学的生理学によって説明できる脳内に閉じた機能であるなら、患者は、記憶を思い出した時、それを思い出させた意志の“主体”が自分にあるのか、それとも他者によって想起させられたのか、判別することはできないだろう。(また「声を出す」という行為についても同様である。)
なぜなら、脳の一元論によれば、“私”そのものが脳の機能によって生じているものであり、脳内の作用そのものをさらに“客観的”に認識するいかなる存在も想定し得ないはずだから。しかし、患者は明らかに、その記憶の想起(または発声)は、他者によってなされたことを正しく認識した。
このことによっても“脳と心の二元論”をペンフィールドが提唱する根拠として、十分に科学的論理的に足る実験だったと、私は考える。
 また、エックルスは次のように書いている。
【 現在流行の唯物論の見地に立てば、人間の心の成長は脳の機能的な発育に他ならない。そもそも心とは脳の働きであり、心の成長―人格の形成―とは、脳そのもの―遺伝情報によって仕組みの決定される純粋に物質的な存在―が、環境から学習することによって自ら機能を発達させていくことに他ならない、というのがその唯物論の見方だからである。
この見方にしたがえば、私たちが自我だと意識しているものも、脳の神経活動の産物に過ぎないことになる。これは自由意志の根本的な否定を意味する。自分の思考や行動を自分できめられると思うのは、まったくの錯覚にすぎないということである。 『心は脳を超える』p.63(下線は紫による。以下同様) 】

 いわゆる“唯脳論”を採用するなら、当然の結果として、自由意志は否定され、運命予定説となる。しかも、その運命には何の根拠もなく、価値もないものとなる。人間の思考そのものの存在理由さえ“生存”以上の価値を有しないものとなり、物質に由来する因果律によらなければ、命題の真偽さえ判定できなくなる。そのとき、いわゆる“唯脳主義”という理論ですら他の思想と同様に、脳内に生じた単なる“幻想”であることになり、自らの思想を含めたあらゆる思想の自滅を招くだけであろう。
はたして、そのような自滅する“思想”を声高に主張する動機はどこにあるのだろう? 単に、自分の研究分野が還元主義的にヒエラルキーの最上部に位置すると信じ、その信仰を主張したいだけの権威主義ではないだろうか?
現在のコンュータ時代にあって、そのような“自滅する権威主義”の思想にかかずらわ
っている暇はない。はたしてコンピュータのCPUの中に意識は存在し得るのか? とか、ロボットは自分を意識できるようになるのか? といったサイバネティクスの問題提起の中で、脳内の電磁気的作用そのものによって“意識”が生じ得るのか、という問題がシュミレーションされつつあるからである。

(『コンピュータ時代の「心」と「私」』と副題の付けられたD・R・ホフスタッター、D・C・ベネット編著『マインズアイ』(TBSブリタニカ)において、“意識”と“私”の様々な見解が述べられている。その中で、私は、以下のホフスタッターの問題提起を支持する。 
【 われわれは生物学的なハードウェアからつくられたただのオートマン(自動機械)にすぎないのであり、生まれてから死ぬまで、くだらぬおしゃべりをしながら、それでも自分は「自由意志」を持っていると自らを欺いているだけなのだろうか ・・略・・ そうしてもし、こうした事項についてわれわれが実際に自らを騙しているとしても、ではわれわれが騙しているのは誰、いや何だというのだろうか? まさにここに、今後の研究に待つべきある種のループが潜んでいるのである。チャーニアクの物語は軽い楽しいお話であった。しかしそうはいっても、ゲーデルの仕事を、機械的アルゴリズムに反対する議論としてではなく、意識の場面に深くかかわっているように見えるその根本的なループを描いたものとして評価している点は、実に的を得たものである。】 『マインズアイ』(下) p.76 )

 ある閉じた系の中で、自己に言及する命題の真偽を、どうやって判定できるのか? という「合わせ鏡の迷宮」ともいうべき“自己言及のパラドックス”。
 クリストファー・チャーニアックは、『宇宙の謎とその解釈』の中で、MIUでオートトミー・グループに携わっていた研究員のC・ディザードが商業用の人工知能ソフトウェアの開発をしていた最中に、突然、「謎の昏睡」に襲われるという皮肉な物語を書いている。
 私なりに要約するなら、この物語の問題提起は以下のようになると思われる。
①「もしも人間の心がコンピュータ理論で把えられるものであるならば、そこには膨大な量の語から成るプログラムが存在し、それをコンピュータに打ち込めば、コンピュータという機械を思考するものへと変えることができるであろう。」(『マインズアイ』下巻p.62)
②しかし、①が可能だとするなら、「人間の心」は、C・ディザードが従事していたまさに、“オートトミー”であることになる。
③しかし、そうであるならば、抽象的情報という「謎」によって、いわば、「人間というチューリング・マシンに対する一種のゲーデル文」(p.62)によって、人の心を金縛り状態にする一種の“カオス”が生じる可能性がある。
④それは、自己指示のパラドックスと言われているもの(「この文は間違っている」という形式のもの)によって、“オートマン理論の初級コース”ですでに「昏睡状態」が生じてしまうだろう。


3.“意識”の問題 ( 心のスイッチのON/OFFについて )

 ホフスタッターは、前述の引用の中で、自己言及のループが“意識の場面”に深くかかわっているのではないかと示唆している。しかし、自己を覗き込む合わせ鏡に映った自己の無限ループが“意識”を生じさせているとしても、その前提として、見るものと見られるもの、その対象が自己であっても、そこに何らかの“主体”が存在しなければ、そもそも無限の鏡像は“見えない”だろう。コンピュータ言語は、あくまでも言語であって主体ではない、主体である著者が存在しなければ、本は存在し得ないように、機械の中には幽霊は存在し得ないと私は思う。
同様に、脳の中に心がないとき、脳の中に事象を意識する主体はいない。
「風景を見つめているとき」、「音楽を聞いているとき」、脳の外部の光や音の周波数を情報処理しているのは脳という機械である。脳は、ちょうどコンピュータのように光や音の入力情報を処理し、同時にメモリにその記憶を蓄える。しかし、そのような“情報”のみでは、“意識”は生じ得ない。網膜に風景が映ってとしても、音の周波数を聴覚センサが感知したとしても、それを風景として見、音楽として聞いているのは、“心”であって“脳” ではない。
( 【何百本もの神経線維を通じて脳に送り込まれてくる感覚情報が、脳の複雑な神経機構の働きによって、心に読み取られる形にパターン化される。それを時々刻刻と読み取りながら、私たちの心は知覚、思考、記憶など、あらゆる内的体験を実現していくのである。 】 『脳は心を超える』 ジョン・C・エックルス、ダニエル・N・ロビンソン著 p.72 )

ところで、心と脳との接続は、どのように実現しているのだろうか?
ペンフィールドは、睡眠時の意識の消失と起床時の意識の生起について、脳内に「脳と心を接続させるスイッチ」が存在するのではないかと述べている。
そして、“最高位の脳機能”によって、脳と心のスイッチのON/OFFがなされているのではないか、とペンフィールドは言う。(注6)
 睡眠時に、このスイッチがOFFにされると、心は脳と切断され、逆に、脳は心からの指令を受け取らなくなるので、ゆっくり休息できるというのだ。(注7)
 確かに、未だに知られていない様々な脳の機能が、まだまだたくさんあるはずである。 “最高位の脳機能”によって、脳は、“自立的に”心を脳に接続し、“意識”を生じさせているのかもしれない。
 しかし、そこで私の中で、一つの疑問が涌いて来る。
「脳と切断されたあとの心には、意識はないのか? 脳と切断された後の心は、何処で何をしているのだろうか?」


4.脳と心のモデル
[“脳”のスイッチがOFFのとき、“心”は何処に居て、何を意識しているのか?]

“最高位の脳機能”(ペンフィールドによれば脳幹上部)によって、睡眠時に心のスイッチがOFFにされると、心は外部感覚器官からの情報を受け取ることはなくなる(“感覚”の喪失)。また、“記憶”は、脳の機能であり、“心”の機能ではないと、エックルスもペンフィールドも論じている。(注8)
 また、脳と心のスイッチがOFFのとき、“記憶”と同様に、脳の機能である“言語”も失われるという。また、肉体がこの世に生まれてからこのかたまで形成してきた“自我”あるいは“人格”をも失うことになる。(注9)
 しかし、われわれが睡眠中など、“意識”を失った後も、脳と接続されていないだけで、“心”は依然として“存在している”ことは確かだ。しかし、そこで心が何を体験したのかは、われわれが意識を取り戻したときの脳の記憶には一切記録されない。したがって、われわれは、意識を失った後、心は、あたかも存在していなかったように錯覚しているだけなのではないだろうか?
 また、この脳と心の接続スイッチをON/OFFさせているのは、“最高位の脳機能”だけで行われているのではなく、同時に、“心の主体的判断”との協調によって、なされているのではないだろうか? 
何故なら、最近報告され話題を集めている「臨死体験」の事例があるからである。


5. 臨死体験

 臨死体験は、しばしばあの世の体験のように論じられている。しかし、脳は明らかに生きており、だからこそ蘇生するのだ。むしろ、「臨死体験」は、完全な意識喪失状態であり、前述した「脳と心のスイッチ」がOFFの状況下で、心がそのときの“記憶”をどこかに保持していた稀な例なのではないか?
 しかし、心拍は停止していたという報告はあるが、そのときの脳波がどうなっていたかの記録は見たことが無い。もし心がオートマンだとするなら、脳内で勝手に生じた電気によって生起しているだけの心象に、“臨死体験”を還元させることも可能だろう。そうなると、ペンフィールドやエックルスの言う「脳と心の二元論」は不要となる。
 しかし、脳内に生じる電気信号は、何らかの“自律的な統合”、“主体的意味づけ”、“自覚の同一性”などが存在しない限り、“意識”とか“記憶”とか呼べるものにはなり得ない。そのことが、まさにこの“主体”こそ“心”なのだと、ペンフィールドやエックルス、また神経学者スペリーが主張していることでもある。
(注10)
 同様に、臨死体験においても、「心の主体的意志」によって、臨死者本人は、また肉体に戻ると報告されている。
( 【 それで、わたしは戻る決心をしました。実際に戻ったときには、衝撃のようなものを受けました。衝撃とともに、自分の肉体に戻ったような感じでした。まさにその瞬間、死線から蘇ったのだと思います。 】 『かいまみた死後の世界』 レイモンド・A・ムーディー・Jr・ 著       評論社 p.111 )
つまり、「脳と心のスイッチ」をOFFにするのは、体の生理的メカニズムであると同時に、逆に、それをONにするのは、心の主体的意志にもよるのであろう。(ここで、主体的意志にも、としたのは、それ以上の存在すなわち“神”とか“光の生命”から生きることを許可された場合があると報告されているからである。しかし、ここでは、“ 意識の階梯”における人間の主体的“心”以上の存在は扱わないものとする。)
 臨死体験下、感覚器官は機能を停止している。しかし、脳は生きており、同時に当然死後も存続する“心”も生きている。しかしそのとき、「脳と心のスイッチ」はOFF状態になっており、“心”と“脳”は接続されていない。したがって、心の経験は、脳の記憶には残らない。
 しかし、臨終の最後の瞬間に、臨死者は一瞬で己の全人生を回想するという。(注11)このとき、脳と心にどのようなプロセスが生じているのであろうか?
 以下は、私の推論である。
 臨終の瞬間、脳内の記憶情報は、全て一瞬にして「死後も存続する心のデータバンク」に転送される(①)。このときがいわゆる“全人生の一瞬の回想”に相当する。同時にこの瞬間、心は「心の記憶装置」とも呼べるもの(生前は機能していない)の電源をONにしたことになる(②)。以後、心は脳に接続されていなくても(「脳の記憶装置」と接続していなくても)、「心の記憶装置」に自らの経験を蓄積することができるのではないか?
 そして、同じように、自らの意志(あるいは“神”の意志)であの世から生還したとき、すなわち「脳と心の接続スイッチ」をONにしたとき(③)、「心のデータバンク」に蓄積されたばかりの(臨死体験下で純粋な心のみが経験したばかりの)「心の記憶装置内のデータ」は、「脳の記憶装置」に一瞬にして逆転送され(④)、心は肉体に戻る(⑤)。したがって、復活した臨死者は、脳と心の接続が切られていた状態で経験した「心の記憶」を、肉体に戻ってからもはっきり思い出すことができるのではないか?
 以上が、私の推論する「脳と心のモデル(その2)」である。
 以下にその略図を描いてみた。従来の「脳と心のモデル」と違う点は、死後の心の存在が図示されている点であり、“心の記憶装置”が、いわば“死後”の領域に存在する点である。
     脳と心のモデル(その2)

  脳の記憶装置 接続OFF時 心の記憶装置
   (生前) ①脳記憶の転送 (死後)

       ④死後記憶の逆転送
                    ②心の記憶装置をONにする
                    (臨死体験(死後の体験)を記憶?)
        ③接続スイッチ
         をONにする
   体(脳)        心

 このモデルは、脳と心にそれぞれ個別の記憶装置がつながっているという単純なハードウェア構成図である。しかし、「心の記憶装置」は、心が最終的に肉体を離れる(臨終)以前は機能しないように設定されている。したがって、「脳と心の接続スイッチ」が同じOFFの状況下であっても、「睡眠時の無意識状態」は、「心の記憶装置」が働いていない状態であり、「臨死体験下の意識喪失状態」では、「心の記憶装置」が働いているという点で異なっている。
 臨死体験者は、仮死状態下で、「心の記憶装置」をONにして、その後、生きていた脳に戻る時点で、「脳の記憶装置」にその情報を逆転送したため、脳と心の接続スイッチがOFFの状況下であった記憶でも、肉体に戻ってからでも、ありありと思い出すことができるのではないか?
 もちろん、最初から脳と独立して存在する“心”などありえない。したがって、心独自の記憶装置なども肉体の外には存在しない、というのがいわゆる“科学的”、“学問的”、“権威的”発想なのだろう。しかし、そのような脳の機能に還元できない“心”(もしくは“魂”さらには“霊”)が、存在しないと明らかに証明することができないかぎり、そうした“科学的”思想も、根拠のない“信仰”の域を出ないのではないか? すくなくとも“心”は“脳”の死後存在しないと証明することは、不可能であると私には思われる。“無”が無いといったい誰が証明できるのか?
【 「先生、私はどうすれば輪廻から解脱することが出来るでしょうか。〔私は〕身体と感覚器官とその対象とを意識しています。〔私は〕覚醒状態において苦しみを感じます。夢眠状態においても苦しみを感じます。熟睡状態に入れば中断いたしますが、その後ふたたび苦しみを感じます。これは一体私の本性なのでしょうか。〔それとは〕別のものを本性としておりながら、なにかの原因によるものなのでしょうか。もし〔それが私の〕本性であるならば、私には解脱する望みはありません。自分の本性から逃れることは出来ないからです。もしなにかの原因によるのであれば、その原因を取り除くとき、解脱に達することが出来ると思います。」
   師はかれに、
  「聞きなさい、君。それは君の本性ではない。ある原因によるものです。」
   このように言われて、弟子は、
  「その原因は何でしょうか。その原因を取り除くものは何でしょうか。私の本性は、一体何なのでしょうか。その原因が取り除かれたときには、その原因に基づいているものは〔もはや〕存在しません。病人は、その病気の原因が取り除かれたとき〔健康を回復する〕ように、私は自分の本性に立ち帰ると思います」と尋ねた。
   師は、
  「その原因は無明であり、それを取り除くものは明智です。無明が取り除かれたとき、輪廻の原因がなくなるから、君は生と死を特徴とする輪廻から解脱して、夢眠状態においても覚醒状態においても、苦しみを感じなくなるのです」と答えた。
   弟子は、
  「その無明とは何でしょうか。その対象とは何なのでしょうか。また明智によって自分の本性に立ち帰るわけですが、その明智とは何のでしょうか」と尋ねた。
   師は答えた。
  「君は最高我であって、輪廻しない。それにもかかわらず『私は輪廻しています』と言って、正反対に理解している。また行為主体でないにもかかわらず『〔私は〕行為の主体である』、経験の主体でないにもかかわらず『〔私は〕経験の主体である』、〔永遠に〕存在するにもかかわらず、『〔私は永遠には〕存在しない』、〔と、正反対に考えている〕。――これが無明なのです。」
・・略・・
  「アートマンは結合したものではないとしても、身体にすぎないと〔見做され〕、身体に付託されてしまうので、〔アートマンは〕実在せず、無常であるという論理的欠陥が起こります。その場合には、〔先生の御意見が〕身体はアートマンをもたない、とする虚無論者(=仏教徒)の主張に帰着するという論理的欠陥が生じるでしょう。」
  〔師は答えた。〕
  「それは正しくない。アートマンは、何ものとも結合していないとしても、身体などの一切のものがアートマンをもたないということにはならない。虚空が一切のものと結合していなくても、一切のものが虚空をもたないということにはならないと同様です。したがって虚無論者の主張に帰着するという論理的欠陥は生じません。」 】
 『ウパデーシャ・サーハスリー』 シャンカラ著 前田専学訳 岩波文庫 p.230〜236


6. 心の領域

 大脳に還元されないペンフィールドやエックルスが論じる二元論的意味での心の属する場所、すなわち天国と地獄の構造は、いわゆる宗教家が受ける啓示の領域であり、この神経精神的メカニズムはパヴロフの犬以上に(あるいは“行動心理学”以上に)複雑な哲学的、宗教的要素を含んでいることは明らかである。
 その意味で、シュレーバーの言う「神との神経接続」は、神経が放出したり受容したりするペプチド・ホルモンや、神経に流れる電気が、単に自己の肉体内で“完結”しているのではなく、いわば“神”と呼ばれる“心の領域”における“他者”との精神的相互作用によって成立している複雑なメカニズムを有していることを暗示しているのかもしれない。
 また、「神経接続」によって受ける「神の光」は、肉体の神経系で作用しているような電磁気的化学的に単一で安定したものではなく、精神の領域では、無数の性質を有している可能性があるのではないか?
 ここに一つの面白い仮説を発見した。『生物学的無線通信』と題されたソビエトの科学者B・B・カジンスキーの著書の中で語られている、「思考は電磁波である」という仮説である。( 『生物学的無線通信』 B・B・カジンスキー著 西本昭治訳 新水社 )
 その中で著者は次のように語っている。
【 人間の中枢神経系は、(今日われわれの知っているもののうちで)もっとも完全な工学的無線通信装置を、その構造の完全性の点でも経済性の点でもはるかにしのぐ、きわめて精巧な生物学的無線通信装置をおさめている場所である。 】 (『生物学的無線通信』 p.44)
そして、1920年代当時、中枢神経を生物学的無線装置だとする観点から、カエルの神経標本の活動電流の測定を始めた。しかし、当時、もっとも高感度と思われたアイントーヴェン検流計すら、せいぜい10のマイナス10乗ampまでしか測定できなかったという。しかし、神経細胞は、10のマイナス15乗ampの超伝導性を持っていると著者は考えた。実際には、超伝導性をもっているような器械は当時存在しなかったので、伝導する活動電流を測定することは出来なかったわけだが、そのかわり、実験者と被験者とをファラデー箱で遮蔽し、テレパシー実験を行った。実験者(テレパシー送信者)はアカデミー会員であるV・M・ベフテレフ、被験者(テレパシー受信者)は動物心理学者V・F・ドゥーロフの愛犬“マルス”である。実験者は被験者に対し、一定の回数だけ吠えろという〈命令〉を送信する。その結果イヌの“マルス”は、命令された回数だけ吠えたという。
 このような20世紀初頭の実験を“心霊実験まがい”とか“パヴロフの犬もどき”として一笑に付すこともできるだろう。しかし、脳の神経回路を“無線装置”とみなして「思考の伝達実験」をしたのは彼だけではなかった。
脳科学者ジョン・C・リリーは、感覚遮断の実験中に(注12)、突然、〈存在〉との「言葉の介在しない直接的な思考と意味と感情の交流」を体験した。(『サイエンティスト』 ジョン・C・リリー著 菅靖彦訳 平河出版社 p.152)
ちなみに、リリー博士もペンフィールドやエックルスと同様、“脳と心の二元論”を支持している。(注13)
リリー博士やカジンスキー博士のような、脳をユニークな方法によって実験する科学者によれば、あながちシュレーバーの「神との神経接続」も神経病として片付けるわけにはいかないのではないかと、私には思われる。


7. 結論

 以上のような考察から、人間の脳と心について、それがコンピュータ・モデルのように単一なる“脳”というハードウェアから生じた情報としての“心”という単純な閉じた構造ではない語り尽くされない複雑な構造を有し、未だに解明されていない未知の領域を多分に含んでいる可能性があることを私は否定できないと感じている。
 脳還元主義に陥ったいわゆる“脳現象論者”の主張は、心というソフトウェアは、脳というハードウェア内の化学的電気的神経伝達物質神経細胞の興奮によって生じる「脳内に閉じられた情報」であることを暗に支持していると思われる。しかし、カジンスキーの仮説を持ち出すまでもなく、心は、単に哲学的形而上的思弁的存在である以上に、もしかしたら未だに測定不可能な、物理学的(量子論的)基礎を有しており、我々の想定する“記憶”や“思考”も、脳内だけではなく、太古の哲人が実感していたアートマンとか虚空とかしか呼びようのなかったものの中に、現に存在しているのかもしれない。そのとき、脳の還元論的一元論はお粗末なモデルとなる。
 同時に、脳と心を考えるとき、脳の一元論では、その推論の過程そのものの中に矛盾を含み、自らの思想の自滅を招くように思われる。現にコンピュータ・プログラムによって人工知能が存在したとしても、ゲーデルの“不完全性定理”を持ち出すまでもなく、その“オートマン”が自分自身を知るという行為自体、論理的に矛盾する自己言及永久ループに陥ってしまうだろう。(そして、その繰り返しは単なる反復であって、何も生み出さないだろう。)
我々のリアリティーは、19世紀的“自然科学”の確固たる物質世界を五感で認識しているだけではなく、“自分自身よりも身近で、しかも、未だに認識できない未知の領域”との相互作用によって、認識され、生きられているものなのかもしれない。
そして、この認識不可能な領域を、病的に、あるいは芸術的に実感していた人たちがいたことも、私は否定できないと感じている。
 シュレーバーは、いわゆる狂人である。また、ニーチェも神になった。したがって狂人である。また、ニジンスキーも神になった。したがって狂人である。しかし、もしかしたら我々は未だに彼らのレベルに到達していないだけで、本当は彼らが何を感じ、何を思考していたのか、理解できないだけなのかもしれない。
 そして、多分、人間の心は、「想像」という「創造」行為によって、肉体的「生殖行為という創造行為」と精神的「性的空想という想像行為」を結びつけ、また、何かを達成したときに脳内で報酬として放出される「脳内麻薬物質」を「快楽」として感じ、それによって自らの自我の超克を「恍惚」と感じるように進化してきた生物なのかもしれない。
あるいは、“脳に閉じ込められた二元的人間”は、未だに物質の領域しか知らないが故に、“心の領域”を、「啓示」という宗教的通路を通してのみ可能となる「奇跡」として受け止め、肉体の生の期間の“現実”を、ハクスリーの言う〈偏在精神〉からの阻害と感じながら、常に〈内なる光〉に輝く〈非自我〉を渇望する〈孤独な巡礼者〉であり、また、〈私の抱擁に窒息しかけた〉言語的存在なのかもしれない。
心は、複雑なリアリティーの交錯によって成り立つ“現実”の中で生じ、社会の中で楽園を求めている存在なのかもしれない。

                                   終

本レポートは、私が書いているブログhttp://d.hatena.ne.jp/hoshius/ に公表させていただきました。


注***************************************
下線は紫による。
(注1)【 脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える。・・略・・ 私は人間は二つの基本要素から成るという説を選択せざるをえないのである。 】
 『脳と心の正体』 ワイルダーペンフィールド著 文化放送 p.137
(注2)【 心を脳の働きだけで説明することができないのは明らかであり、著者は、この事実に基づいて心身問題を考えたすえに、二元論的相互作用説にたどりついたのである。 】
 『脳は心を超える』 ジョン・C・エックルス、ダニエル・N・ロビンソン著 
紀伊国屋書店 p.64
(注3) 『脳をあやつる分子言語』 大木幸介著 講談社
(注4) 【 ニュートン以来の精密自然科学は、われわれの経験の到達し得る自然の領域を、厳密に数学     的に把握し得る法則に従って整理することが常に可能であるにちがいないという暗黙のうちの前提に基づいている。 】
  『真理の秩序』 ヴェルナー・ハイゼンベルク著 筑摩叢書335 p.60 
【 ニュートン力学がその基礎に置いたような自然現象の理想化とさまざまな面で隔たってきたが、ここまでの所では「古典的な」理想化という一つの点を確固不動のものとして保持してきた。すなわち、それは自然の中での事象を完全に客観化し得るものとして、ということはわれわれから離れて空間と時間の中での客観的な出来事として投影される限りにおいて、考察してきたのである。 】
 『真理の秩序』 p.97
(注5)【 声を出させたときには、患者の答えはこうである。「私が声をだしたんじゃありません。先生が私から声を引き出したんです」 また、私が解釈領を刺激して意識の流れの記憶を再生させ、過去の経験を再現させると、患者は自分が過去と現在を同時に意識していることに気づいて、びっくりした。】
 『脳と心の正体』 p.132
(注6) 【 最高位の脳機能が「半ば独立した要素」である心をスイッチ・オンし、心は直ちに自分の仕事にとりかかる。そして私達が眠るときには、最高位の脳機能が心をスイッチ・オフする。こう考えるのは果たして無理だろうか? 私にはもう一方の説明、すなわち、最高位の脳機能が自身で理解し、推理し、随意運動を指示し、何に注意を向けるかを決定し、コンピュータに何を学ばせるかを決め、記録をとり、必要に応じてそれを再生すると考える方が、無理なように思えるのだが。 】
   『脳と心の正体』 p.139
(注7) 【 最高位の脳機能は心へのエネルギーの供給を私達が眠りに落ちる時には切り、目覚める時には再開すると考えられる。この毎日自動的に営まれる働きはすべての哺乳類に生まれつき備わっているもので、これによって脳は疲労から回復するのである。 】
    『脳と心の正体』 p.138 
(注8) 【 心は経験を永続的な記憶として保持することはできない。それはそうした記憶をつかさどる特別な脳機能の働きなのである。 】
 『脳と心の正体』 p.126
【何百本もの神経線維を通じて脳に送り込まれてくる感覚情報が、脳の複雑な神経機構の働きによって、心に読み取られる形にパターン化される。それを時々刻刻と読み取りながら、私たちの心は知覚、思考、記憶など、あらゆる内的体験を実現していくのである。 】
 『脳は心を超える』 p.72
(注9) 【 私たちが心の中の何かの考えを言葉で表現しようとするとき、まだその言葉が口に出されない段階でも、脳のしかるべき部分のパターン化された神経活動が、然る言語表現の機能をになって心に連絡しているに違いない。この密接にして適切な心―脳相互作用に支えられて、 ・・・略・・・ 内なる思考の外在化を実現していくのである。】
 『心は脳を超える』 エックルス著 p.180
【 アリストテレスが言ったように、心は 「肉体に結びつけられている」 そして、最高位の脳機能が損傷やてんかん性放電や麻酔剤のために働きを止めると、心は認められなくなる。それどころか、睡眠中も心は認められないのである。 】
 『脳と心の正体』 ペンフィールド著 p.138
(注10)【 最高位の脳機能が機能を失った時に現れる自動人間には、まったく新しい決定を行うことはできない。 ・・・略・・・ こうした自動人間の行動や、過去の経験のフラッシュバック現象は、脳の反射的な統合・調整作用の複雑さと見事さをはっきり教えてくれる。 ・・・略・・・ しかし、心の働きをこれら脳の仕組みだけで説明できるだろうか? 結局は反射的な働きがすべてなのだろうか? 長年にわたる人間の脳の研究の結果から私の答えは、「ノー」である。 】
   『脳と心の正体』 p.94〜95 
【 神経学者スペリーはこれに同意して次のように語る。「意識に関しての我々の新しい見解によれば主観的価値観それ自体が脳機能と行動の原因となり、それらに強い影響を与えている。人間が決意するときには主観的価値観が常に決定的要素となっている。それはこの世界の出来事の最も強力な原因である。」 】
『サイエンス・ニューストーリー』 ロバート・M・アウグロス、ジョージ・N・スタンシウ 著 丸善株式会社 p.101 (ジョン・C・エックルスが序を書いている)
(注11)【 すべてがとても奇妙でした。わたしはあそこにいて、紛れもなくあのフラッシュバックを見ていたのです。それも、ものすごい速度のフラッシュバックでした。それなのに、すべての場面を十分理解できました。しかしたいして時間はかかりませんでした。長くかかったとは思っていません。あの光が出現し、わたしがフラッシュバックをたどり、そして再び光が出現した、そんな感じでした。五分とはかからなかったように思います。 】
 『かいまみた死後の世界』 レイモンド・A・ムーディー・Jr著 評論社 p.91
(注12)【 10 脳と心を分離する方法 】
 『サイエンティスト』 ジョン・C・リリー著 菅靖彦訳 平河出版社 p.136〜
(注13)【 自分自身の心、それに動物の脳や四十代、五十代初期の人間の脳の研究は、脳と心という二つの実態に関する現在の見方の二分法を強化することになった。 】
 『サイエンティスト』 P.108


引用・参考文献****************************************

『脳と心の正体』 ワイルダーペンフィールド著 塚田裕三 山河宏 共訳 文化放送
『脳は心を超える』 ジョン・C・エックルス、ダニエル・N・ロビンソン著 大村裕 山河宏 雨宮一郎訳 紀伊国屋書店
『脳をあやつる分子言語』 大木幸介著 講談社
『真理の秩序』 ヴェルナー・ハイゼンベルク著 山崎和夫訳 筑摩叢書335
『サイエンス・ニューストーリー』 ロバート・M・アウグロス、ジョージ・N・スタンシウ著 山内昭雄監訳 今忠訳 丸善株式会社
『かいまみた死後の世界』 レイモンド・A・ムーディー・Jr著 中山善之訳 評論社
『ウパデーシャ・サーハスリー』 シャンカラ著 前田専学訳 岩波文庫
『生物学的無線通信』 B・B・カジンスキー著 西本昭治訳 新水社
『サイエンティスト』 ジョン・C・リリー著 菅靖彦訳 平河出版社
マインズアイ』コンピュータ時代の「心」と「私」 上下 D・R・ホフスタッター、D・C・ベネット編著 坂本百大 監訳 TBSブリタニカ
『知覚の扉』 オルダス・ハクスリー著 河村錠一郎訳 平凡社ライブラリー738
『オルガスムの機能』 W・ライヒ著作集1 渡辺武達訳 太平出版社