臨死体験

 臨死体験は、しばしばあの世の体験のように論じられている。しかし、脳は明らかに生きており、だからこそ蘇生するのだ。むしろ、それは、完全な意識喪失状態であり、前に述べた「脳と心のスイッチ」がOFFの状況下で、心がそのときの“記憶”をどこかに保持していた稀な例ではないか?
 しかし、心拍は停止していたという報告はあるが、そのときの脳波がどうなっていたかの記録は見たことが無い。もし心がオートマンだとするなら、脳内で勝手に生じた電気によって生起しているだけの心象に、“臨死体験”を還元させることも可能だろう。そうなると、ペンフィールドやエックルスの言う「脳と心の二元論」は不要となる。
 しかし、脳内に生じる電気は、何らかの自律的な統合、主体的意味づけ、自覚の同一性などが存在しない限り、意識とか記憶とか呼べるものにはならない。そして、まさにこの“主体”こそ“心”なのだと、ペンフィールドやエックルスは論じている。
 同様に、臨死体験においても、「心の主体的意志」によって、臨死者本人は、また肉体に戻るのである。つまり、「脳と心のスイッチ」をOFFにするのは、体の生理的メカニズムであると同時に、それをONにするのは、心の主体的意志にもよるのであろう。
 臨死体験下、感覚器官は機能を停止している。しかし、脳は生きており、同時に当然死後も存続する心も生きている。しかしそのとき、「脳と心のスイッチ」はOFF状態になっており、心と脳は接続されていない。したがって、心の経験は、脳の記憶には残らない。
 しかし、臨終の最後の瞬間に、臨死者は一瞬で己の全人生を回想するという。このとき、脳と心にどのようなプロセスが生じているのであろうか?
 以下は、私の推論である。
 臨終の最後の瞬間、脳内の記憶情報は、全て一瞬にして「死後も存続する心のデータバンク」に転送されるのではないか? 同時にこの瞬間、心は「心の記憶装置」ともよべるもの(生前は機能していない)の電源をONにするのではないか? 以後、心は脳に接続されていなくても(「脳の記憶装置」と接続していなくても)「心の記憶装置」に自らの経験を蓄積することができるのではないか?
 そして、同じように、自らの意志であの世から生還したとき、すなわち「脳と心の接続スイッチ」をONにしたとき、「心のデータバンク」に蓄積されたばかりの(臨死体験下で純粋な心のみが経験したわずかばりの)「心の記憶装置内のデータ」は、「脳の記憶装置」に一瞬にして逆転送され、心は肉体に戻る。したがって、復活した臨死者は、脳と心の接続が切られていた状態で経験した「心の記憶」を、肉体に戻ってからもはっきり思い出すことができるのではないか?
 以上が、私の推論する「脳と心のモデル(その2)」である。
 このモデルは、脳と心にそれぞれ個別の記憶装置がつながっているという単純なハードウェア構成図である。しかし、「心の記憶装置」は、肉体に心が居る間は機能しないように設定されている。したがって、「脳と心の接続スイッチ」が同じOFFの状況下であっても、「睡眠時の無意識状態」は、「心の記憶装置」が働いていない状態であり、「臨死体験下の意識喪失状態」では、「心の記憶装置」が働いているのではないだろうか? したがって、臨死体験者は、そのときの記憶を肉体に戻ってからも、ありありと思い出すことができるのではないか?
 もちろん、最初から脳と独立して存在する“心”などありえない。したがって、心独自の記憶装置なども肉体の外には存在しない。というのがいわゆる“科学的”“学問的”“権威的”発想なのだろう。しかし、そのような脳の機能に還元できない“心”(もしくは“魂”さらには“霊”)が、存在しないと明らかに証明することができないかぎり、そうした“科学的”思想も、根拠のない“信仰”の域を出ないのではないか? すくなくとも“心”は“脳”の死後存在しないと証明することは、不可能である。無が無いといったい誰が証明できるのか?
 大脳に還元されないペンフィールドやエックルスが論じる二元論的意味での心の属する場所、すなわち天国と地獄の構造はいわゆる宗教家が受ける啓示の領域であり、この神経的メカニズムはパヴロフの犬以上に複雑な哲学的、宗教的要素を含んでいることは明らかである。
 その意味で、シュレーバーの言う「神との接続」は、神経が放出したり受容したりするホルモンや、神経に流れる電気が、単に自己の肉体内で“自己完結”しているものではなく、いわば“神”とよばれる“他者”との精神的相互作用によって成立している複雑なメカニズムを有していることを暗示している。
 「神経接続」によって受ける神の光は、肉体の神経系で作用しているような電磁気的化学的に単一なものではなく、精神の領域で無数の性質を有している可能性を暗示している。
 シュレーバーは、いわゆる狂人である。また、ニーチェも神になった。したがって狂人である。また、ニジンスキーも神になった。したがって狂人である。しかし、もしかしたら、われわれは未だに彼らのレベルに到達していないでけで、本当は彼らが何を感じ、何を思考していたのか、理解できないだけなのかもしれない。
 そして、多分、それは創造と想像。生殖行為という創造行為と性的空想とう想像。また、脳内で報酬として放出される脳内麻薬と快楽、恍惚、あるいは、自我の超克と啓示とも絡む複雑なリアリティーの交錯によって成り立つ、“現実”なのかもしれない。
 しかし性急に思いつくまま言葉を羅列しただけでは、無意味である。今回はこれらをメモとして、また改めて順を追って、考えていきたい。