紫源二の自伝的回想

 アクセスログを見て気づいたのだが、「紫源二の自伝的回想」(http://blogs.dion.ne.jp/hoshius/)が、毎週コンスタントに約70人もの人に読まれているようだ。70人という数字は、ブログのアクセス数としては最低ランクかもしれない。しかし、私にとっては、70人もの読者がいることは大きな驚きであり、喜びだ。(どうして、だれが、どこで、いつ、この「自伝的回想」の存在を知ったのだろう?)
 70人もの読者のためにも、ますます内容を充実せねばならぬ、と考えている。
 ところで、自画自賛めいているが、「オットー・マルス の Nakid 作品集」(http://hoshius.exblog.jp/)をまだご覧になっていない方がいらっしゃったら、是非、ご覧になることをお勧めします。なにせ、このページ、何故か、アクセス数がとっても少ないのです(1日に数件)。そんなに面白くないはずはないと思っているのに。ちょっと小難しい、理屈っぽい、絵画に説明はいらない、と考えている人が多いのかもしれない。でも、私は気に入っている。(マスターベーションという罵倒は、耳にイカができるぐらい聞き飽きた。)
 また、最近力を入れているのが、幻の現在詩集『あまたのおろち』by 紫源二 (http://blog.goo.ne.jp/hoshius)である。
 詩を書くのは、やはり、難しい。書こうとして書けるものではないし、書かずして書けるものでもない(言語撞着)。だけど、Eメールで投稿できるので、いつでもどこでも現在詩集づくり、である。
 ロシアの未来派詩人は、20世紀初頭、「意味超言語」すなわち意味を超える言語(そのまんま)で詩を書こうとしたらしい。意味を超える言語。その言語を誰が何の根拠でどう理解するのだろう? イマジネーションは、尽きない。またそれは、「個人言語」にも通じる。だれにも理解されない「私だけの言語」を、果たして誰かに「語る」必要があるのだろうか? 無意味なことほど面白い。不可能なことを平気でできるのがアートだ(たいがい、案外、単純だったりして、とってもわかりやすかったりして・・・)。
 だが、そのような「宣言」をすることが重要だったりした時代もあったのだ。コウモリ傘とミシンのように。でも、最近やたらとマルセル・デュシャンの「泉」ばかり紹介されるのが目について、うんざり気味だ。もう、こんせぷちゃるは、ふるいでしょ。・・・でも、メジャーでは、やっと「現代美術」がデュシャンのコンセプトに追いついて、彼を理解したようで、喜んでいる様子。もう、誰も驚かないのにね。
 だいたい、アカデミーやマスコミの言う「現代××」って、50年から100年古いね。現代美術、現代詩、なんて、何の意味がある? 追いかけたい奴は追いかけるがいい。もう、20世紀は終わったんだ。ピカソは死んだんだ。印象派キュビズム、プリミティブ、フォービズムといったスタイルの変遷がアートの潮流であった時代は終わった。(ネオジオ、アニメズム? コグミズム? ヤプーイズム? ドラッグイズム? ペヨーテイズム? ラブイズム? ピーシズム?)
 でも、「個人言語」は不可能だとしても、「個人美術」は不可能じゃないのじゃないかな。 又「マスターベーション」だって?また言うのかい? だから、僕は、耳からイカの耳飾を10本もぶら下げてるって言ってるだろ。