“私”ではない

 ペンフィールドは、患者の脳に直接電極を当て、何が起きるか実験した。
その結果、ある部位に電極を当てられた患者は、自分でも忘れていた記憶を鮮明に思い出したという。しかし、それは自分が思い出したのではなく、「先生(ペンフィールド)がそうさせたのだ」と主張したという。
もし、“私”という主体が、脳の電磁気的物理学、化学的生理学によって説明できる脳内に閉じた機能であるなら、患者は、記憶を思い出した時、それを思い出した“主体”が自分であるのか、それとも他者によって想起させられた記憶であるのか、判別することはできないだろう。なぜなら、脳の一元論によれば、“私”そもものが脳の機能によって生じているものであり、脳内の作用そのものをさらに“客観的”に認識するいかなる存在も想定し得ないはずだから。しかし、患者は明らかに、その記憶の想起は、他者によってなされたことを正しく認識した。
このことによっても“脳と心の二元論”をペンフィールドが提唱する根拠として、十分に科学的論理的に足る実験だったと、私は考えるのだが…。さらに、はたして、脳内の電磁気的作用そのものによって、“意識”が生じているのか、という問題がある。
 そのことは、果たしてコンピュータのCPUの中に意識は存在し得るのか? とか、ロボットは自分を意識できるようになるのか? といったサイバネティクスの問題ともリンクしてくる。