至高の芸術、『土方巽』

  
先日TVで画家フランシス・ベーコンの足跡を舞踏家田中泯が辿り、ベーコンの初期の絵画の前で舞踏をする番組をEテレでやっていた。偶然見かけたのですぐに録画のスイッチを押したが、途中からしか撮れていない。僕は20代の頃よく、中野の富士見町にある我が母校(高校)の近くにあった”プランB”に田中の舞踏を見に行った。ベーコンの絵が来た時も(たしか竹橋の近代美術館だったと思う)見に行った。
僕が10代の最後に居候させてもらっていた杉並の清水の家。(2軒長屋の一軒で、隣は空き家。庭にとび職のTさんが現場から持ってきた鉄骨とコンパネと塩ビの板で作った部屋((ビニールハウスのような部屋))に僕は居候していた。)Tさんは、とび職をしながら稽古を続ける暗黒舞踏家だった。そしてTさんは笠井叡大野一雄の弟子でもあった。笠井叡の舞踏を一緒に見に行ったこともある。(僕は笠井叡の舞踏に圧倒された。魂の底から)
僕が90年代に六本木や青山界隈でアート展をやっていた時、骨董通りのBLUEというクラブで現代美術愛好家ジョニー・ウォーカー主催の個展をさせてもらったのだが、そのときクラブのフロアーで大勢の多国籍の観客の前で暗黒舞踏のパフォーマンスをしてくれたのが、大駱駝艦の狸穴さん達(十数人?)だった。
そんなこともあって、僕と”暗黒舞踏”の縁は深い。
ところで、暗黒舞踏をTV等で紹介するとき(今回のベーコンと田中の番組でもそうだったのだが)、ほんの数秒、”暗黒舞踏”の創始者として『土方巽』の映像が文字通りまばたきするほどの一瞬映る。僕はそれを見るたびに電流が走るのだ。あまりの美しさに!
今回の番組にも一瞬『土方巽』の映像が映った。あまりにも目を奪われる映像だったので、その一瞬を何度も巻き戻して見た。
ところが、ぼくにとって『土方巽』は神のような存在で在り続けたため、1985年まで彼が生きていたなんて今の今まで知らなかった。もうとっくの昔に死んでいるとばかり思い込んでいた。僕が生まれたときには既に(ニジンスキー同様)もう手の届かない天上界の存在になっているのだと思い込んでいた。でも、1985年まで生きていたのなら、もし見ようと思えば彼の”舞踏”を見れたかもしれないし、会おうと思えばもしかしたら彼に会えたのかもしれない。例えばTさんを通じて・・。そう思うと、なぜTさんは僕を『土方巽』に会わせてくれなかったのかと、今更ながらTさんに問いただしたくなる。
今はネット社会になったから、さっそくアマゾンで本とDVDを注文した。(DVDは一枚しかなかった。)今日、本がきた。『土方巽を読む』という清水正著の分厚い本で、写真もたくさん載っている。実は一度、土方がTVで自らの舞踏について語っているのを偶然見たことがある。彼の話しがとても面白すぎて、忘れることができない。そのときは田舎のオッサンのようだったと記憶している。それからしばらくして亡くなったわけだから、いったい幾つで亡くなったのだろうか。NETで調べれば一発だが、そんな簡単にNETでは調べたくない。(なぜだか分からないが・・)。それは別として、今回買った本は、『土方巽』の『病める舞姫』、『美貌の青空』という著作の評論らしい。僕はまだ読んでいないが、ちらっと見ただけだが、『土方巽』の著作の独特の文体、文章、言葉使い、全てが”特異”すぎて、すでに興奮している。
著者は、土方は「<言葉のひと>としては三流」と書いているが、はたしてそうだろうか?
Tさんの”ビニールハウス”に居候していたときに、笠井叡の『天使論』がTさんの本棚にあったので、こっそり読んだことがあるのだが、まったく理解不能の言葉の羅列に唖然とした。
舞踏家の言語というのは、最高に特殊なのである。
そして僕は秘かに、舞踏家の書く文章は、そこらへんにいる(エラそうな)現代詩人らの範疇を遥かに超えた芸術の高みにまで達しているのではないかと思っている。つまり、最高の詩であり、他の言語には翻訳など不可能な”肉体言語”は、特異な”自在な文法”を持っているのだ。
ここまで『土方巽』を絶賛してこの日記を書いてきた訳だが、さらにさらに絶賛したい衝動が沸いてくる。
至高の芸術は”絵画”だと天才ダリが言った。僕もそれを信じてきた。ルネッサンス以降、マザッチオやジオットの登場によって、建築、彫刻よりも絵画が至高の芸術になる端緒が現れ、ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロなどによって更に絵画の芸術性がより強固になっていった。もちろん僕のかってな解釈だが・・。
世界には各国を代表する”天才”と呼ばれる芸術家がいる。例えばイタリアなら先ほどのルネッサンス期のダ・ヴィンチミケランジェロラファエロ。ドイツならバッハ、モーツアルトベートーヴェン。ロシアならトルストイやドフトエフスキー。スペインならピカソやダリ。では、日本はと訊かれたら、もしかしたら『土方巽』なのではないかと僕は秘かに思う。
一瞬しか見たことのない映像の中の美。僕は永遠に惹きつけられる。
そして、今回のTV番組はフランシス・ベーコン田中泯、画家と舞踏家の競演だったが、とてもいい勝負だったと思う。ところが、『土方巽』を見ると、絵画はもしかしたら”至高の芸術”の座を”舞踏”にあっさりと明け渡すのではないかと思われることを、僕は逆に嫉妬せずにはいられないほどなのだ。
絵画の至高性を信じている僕だが、”舞踏”を前にすると、絵画を描くことすら虚しくなるくらい、圧倒的美がそこにはあるからだ。
本はまだ読んでいないし、DVDはまだ来ていない。どんな映像が映っているのか分からないが、とっても楽しみにしている。そしてこの評論を読んだら、実際の『土方巽』の著作を直に読んでみたいと思っている。
彼は間違いなく、日本を代表する大天才の一人だ。
(それにしても、見ようと思えば見れたかもしれないのに、見られなかったことが、とっても悔やまれる。)
(まあ、そんなことを言えば、ニジンスキーだって写真でしか見たことがないが大ファンだし、一瞬を映した写真が全てを物語っていることだってあるのだ。)
(そんな”舞踏家”たちとの初めての衝撃的出会いの場となったTさんの”ビニールハウス”。そこに10代のどこの馬の骨だか分からない(牛の糞だかわからない)僕を居候させてくれた舞踏家のTさんには、改めて大感謝したい。)