落書き


昨日は春分の日
最近、ブルーのインクの万年筆で、無地のルーズリーフに、落書きしたり日記を書いたりしている。
 
かっこいい落書きが描きたいんだけど、それは自分流の落書きしか描けない。
何を描くのかが大切ではなくて、どう描くかが大切。
でも、本当はどう描くかではなくて、どんな意識状態で描くかが大切。
大切というか、そうでなければ描いている意味がない。
気持ちのいい状態とは、没頭しているとき、不意に訪れるこの世ならぬ感覚。
蒸暑い日にふいに吹きぬける涼しい風のような一瞬の感覚の解放。
最近、高気圧と低気圧がせめぎ合って、日本中に暴風が吹いているらしいが、
風が心地よく感じられるのは、微かですぐに吹きぬけてしまう涼風。
 
今日のニュースで、アベノミクスで円安になってきたので、外国人投資家が日本の現代美術を収集し始めたというのをやっていた。
バブルの頃は、アラブの石油王だとかが、日本の現代美術を大量に収集していると言われていた。
でも、すぐにバブルは弾けてしまい、日本の現代美術も、さほど盛り上がらなかった。
一部の村上隆などがヴィトンのデザインをやったりして話題になったが、それ以外あまりぱっとしなかった。
大勢の目を意識して描いた、優等生的絵画や、キューレターの受けをねらったコンセプチャルなインスタレーションなどは、そのときは話題になるかもしれないが、すぐに忘れ去られてしまう、週刊誌のネタのようなものである。
マスコミで取り上げられたりした美術は知名度があり、価格も上がっていくのだろうが、そんな数字では美術の本当の価値は計れない。
美しいものがいったい何なのか。宝石の、ルビーの赤、サファイヤの青、トパーズの黄色の輝き。金の重みのある光沢。価値あるものは腐食せず、ダイヤモンドのように硬く壊れにくく、いつまでも永続するものだ。
だが、ちょうど東京では桜の花が既に満開の様子だが、一斉に花開き、すぐに散ってしまう淡くはかない花弁に無常の美を見出してきた日本人にとって、必ずしも永続するものに美の価値があるとは限らない。
生き方としては、桜のような一瞬で咲いてすぐに散ってしまう一生の方が美しいには違いないが、美術品は、やはりどんな時代になっても永続する美が貴い。そしてその美とは、何が描かれているかではなくて、どう描いたのか、更には、どういう精神状態で描いたのかが、本当は問われている気がする。ゴッホの禅僧のような自画像。ダリの大画面の原子聖母マリア。たしかにコンセプチュアルな要素はあるが、それを描いた作者の必然性が精神の極限として表現されていることに、僕は価格以上の価値を見出したい。