一昨日のこと

  
もう過ぎてしまったが、一昨日のことを書いておきたい。
 
昨日は、一日仕事をしてきたから、今日は疲れた訳でもないが、ほとんど一日中ごろごろしていた。
 
グールドばかり聴いていた。
 
音楽というは、ほんとうに不思議だ。
 
高音と低音のあの、からまり具合の巧妙さは美以外の何物でもない。
 
自然界にある美ともひけをとらない、人間が創造した美。
 
ところで、
 
一昨日、そのような”自然界の美”を見た。
 
僕は、伝染病患者に面接に行った。
その伝染病患者は、若いおにいさんだが、これが本当にどうしようもない男で
自分の病気も、自分が仕事をしないのも、
何もかも全て周りのせいにして偉そうに文句ばかり言っている奴で、
そのくせ、自分では何一つもできない奴なのだ。
もちろん、そういう自分の愚かさを自分ではまったく自覚していない。
その日は、主治医のことを”あのバカ”呼ばわりして、
隔離されていることに文句を言っていた。 
こういうおにいさんは、低脳でまったく醜いと思うのだが、
その男のことは、今回の話ではない。
 
郊外の伝染病専門病院に行った帰り、とある大きな公園の近くを通りかかった。
昼飯も食べていないまま、昼をだいぶ過ぎていたので、
この公園に立ち寄って、昼食でも食べようかと思った。
ちょうど、売店に座って食べられるスペースがあり、
そばやラーメンが売っていた。
そこで、もりそばを食べた。
 
まだ残暑の空気は蒸暑く、汗をかいていたが、
風が吹くと、涼しく感じられ、
昼食後、昼休みの休憩のつもりで公園を歩いた。
 
大木が空高くそびえている一角があって、
見上げると、木々の高い梢が空をドーム状に覆っている。
ちょうどいい木陰ができているところにベンチがあり、
人もあまりいないので、そこに座った。
 
木漏れ日がまだらに落ちる地面をふと見ると、
そこにカナブンがいた。
二匹ひっくり返って、一方がもう一匹を後ろから羽交い絞めにしている。
羽交い絞めにされたカナブンは、6本の手足をばたつかせ、必死に逃れようとしているが、
下から羽交い絞めにされたまま、逃れられない。
見ると、ひっくり返ってばたつかせている6本の手足と腹が金色に光っている。
木漏れ日を反射して、金色の輝きが、なにかの職人がつくった金細工のように見える。
どうやら、下にいるのがオスで、上に羽交い絞めされているがメスのようだ。
やがて、下のオスからの生殖器がメスの尻に挿入されると、
ばたつかせていた金細工のような手足の動きが止まり、
ゆっくりと同期して二匹がリズミカルに鼓動し始めた。
カナブンも快楽を感じているのだろうかと思いながら、観察を続けていると、
やがて、雌雄が一体になって、心臓のように鼓動していた動きが止まり、
しばらく死んだように動かなくなった。
やがて、おもむろにメスがオスを拒否するように、またもがき始めた。
力を失ったオスの手足の絡みから、もがくメスが離れ落ちると、
仰向けになったまま、二匹は離ればなれになった。
さて、これからがたいへんだった。
仰向けになったまま、手足をばたつかせていても、
丸い背中が地面から身体を持ち上げているから起きあがることができない。
先に起きあがったのは、メスの方だった。
見ると、宝石のような黄金のカナブンだった。
頭の方が少し角ばった形をしている。
やや緑がかった光彩を発し、24金と18金の黄金が斑点のような模様になっている。
この世で最高の職人が作り上げた宝石細工のように美しい姿かたち。
地面を歩き、僕の方に近付いて来た。
僕の右足のスニーカーのゴム底に触覚を付け、一通りまさぐったあと、それを迂回し、
今度は、左足のスニーカーに近付いて来た。
今度は、ゴム底を触覚でまさぐると、そこを昇り始め、
ジーンズに移り、膝の半分まで、鉤針のような爪を立てて昇って来た。
そこで一瞬止まったかと思うと、潔く飛び立った。
数メートルもすると森の木漏れ日に見失ってしまった。
一方、オスの方は、まだひっくり返ったまま、起きあがることができないままバタバタしている。
しばらく見つめていた。
野生のものに手を加えてはいけないと言う。
手助けもしてはいけないのだと言う。
でも、人間は、殺すことは平気でするではないか。
例えば、アスファルトの路上にゆっくり歩いているカナブンを見つけようものなら、
足で踏みつけるではないか。
殺してもいいが、助けてはいけないという理屈は成り立たないだろう。
そう思い、落ちている小枝を拾って、ひっくり返ったままもがいているカナブンを枝で弾いて
起こしてやった。
オスの方が少し小ぶりだったが、こちらも黄金色の宝石のようなカナブンだった。
彼は地面を歩くことなく、
男らしく決断したように、その場で躊躇することなく、空に向かって飛び立った。
見ると、ほぼ垂直に飛んで、
木々の高い梢のドームめがけて消えた。
 
二匹の黄金のカナブンの生殖に、幸運にも出会わせてもらったわけだ。
 
美しかった。
 
自然の美は、バッハの音楽のようにも、音符と音符が絡み合い、
同調し、反発し、同期し、鼓動し、
不思議な光を放って、
人知れず、オスとメスが力強い時間を共有してハーモニーを奏で、
やがて、音楽が終るように無音になり、
別々の空間に飛び立った。
 
メスはこの後、卵を生み、オスは死ぬのだろうと思った。
 
黄金のカナブンの生殖に立ち会えた一昨日の出来事を、書いておこうと思った。