芸術の定義

 
今日は土曜日なのに、事務所に行って仕事をしてきた。
 
それなのに、まだ終わらないというのは、どういうことなのだろう。
 
 
”芸術”について、
 
”芸術”というとなにかたいそうなことのように聞こえるが、
ツイッターで、芸術についてのつぶやきがあったので、考えてみた。
 
僕は以前、「狂気の芸術」という言葉に反応したと冗談交じりでツイートしたが、
それがもしかしたら誤解を招いているのかもしれないと思った。
 
僕は、”芸術一般”が狂気を基本としていると言っているわけでは、ぜんぜんないのだ。
 
このように言えばよかったのだろう。
 
僕は、自分の芸術を、狂気をその方法論として考えている。
 
A君は、A君の芸術を、”魂”を基本に考え、制作しているかもしれない。
B君は、B君の芸術を、”想いやり”を基本に考え、制作しているかもしれない。
C君は、C君の芸術を、”テクニック”を磨くことを基本に考え、制作しているかもしれない。
 
それは人それぞれいろいろに考え、芸術を制作しているのだと思う。
千差万別であって、こうでなければいけないというものはないはずだ。
 
でも、”芸術一般”につて、「芸術とはこういうものだ」と言って定義したり、議論したりすることは
まったく無意味なことは当然なことだが、それだけでなく、
そのように芸術を定義しようとすることは、芸術そのものを規定し、狭めるものだと思うから、
やめた方がいいと思う。
  
僕は、なにか絵を描いている時、たとえば”狂気”としか大雑把には呼べないような感覚に襲われることがある。
その”狂気”とは、つまり、
既存の、日常の意識から制作している最中の精神が自由になったとき、
あまりにも見慣れぬ、なじみのない意識状態になるので、
狂気なのではないかと恐れもするような感覚。
 
もしかしたら、それが”変性意識状態”とか言われているものに似ているのかもしれないが、
そのような意志気になった時、描いている線が自由になり、描いているものがリアルになる。
 
だから、そのような意識状態になることを、
筆遣いとか、影の濃淡とか、遠近法とかとは別に、
意識状態を方法論とすることが可能で、
僕は狂気を、僕の芸術の方法論として採用し得ると思っているだけなのだ。
(この”狂気”という言葉の意味も微妙だが・・)
  
だから、僕は、狂気について、芸術一般について論じている訳でもなんでもないので、
そのことについて、誰かと議論しようという気などさらさらなく、
しかも、その方法論について、誰かから批判されたり、評価される理由も、
まったくないのだ。
 
人はそれぞれ、自分の方法論で、自分の芸術を創造すればいいだけの話しである。
 
その結果を見て、いろいろな人が「好き」だの「嫌い」だの言うだろうが、
嫌いな人に、言葉で説得して、好きになってもらおうなんてしても、
まったく無意味なのだ。
 
嫌いなら嫌いで別にどうでもいい。見なければいいし、私からなるべく遠ざかればいいだけの話だ。
 
好きなら、とても光栄だ。
僕の”芸術”を好きだと言ってくれる人が、たったの一人だけでもいてくれたら、それで十分だ。
他の大勢に妥協しようとは思わない。
だれか世間に妥協しようとも思わない。
ニーチェ先生の言ったように、遠人愛だ。
僕の場合、それは、「宇宙人に気に入れれること」と表現できるかもしれない。
凡庸な100万人よりも、たった一人の感性のずば抜けた宇宙人に評価される方が嬉しい。
そして、そのような気持ちで”芸術”を制作しないと、
万人受けするだけの物は、とても陳腐な物にしかならないだろう。
 
私の方法論は、そのようなコンセプトで成り立っているのかもしれない。
 
ただ、それが芸術一般に当てはまるかどうは、わからない。