みじめな善人は弱者というレッテルを自らの額に張り付けて闘いに臨む

 
 
 
今日もさっき眠剤を飲んだ。
 
早く眠らないとやばいから。
 
 
ところで、
 
いろいろなレベルの戦争がある。
 
不思議と、そんなモードになると引き寄せられることがある。
 
もっと別のものを引き寄せたいのだが・・・。
 
今日は、"善人"と自ら言ってはばかなない弱者に会った。
 
完全に妄想で頭がいっぱいになっていた。
 
”善人”の文字通りの”弱者”で、無力で何もできないのに、
 
考えることは100%自分のことだけで
 
頭が渦巻いている。
 
夜もろくに眠れないのだろう。
 
恐怖と憎しみで思考がいかれてしまっている。
 
哀れなもんだと思った。
 
これじゃあ、悪人にカモにされて笑い者にされるだけだ。
 
弱者にも弱者の欠点がある。
 
それでもそれを反省しないところが救いようがないところだ。
 
「自分は善人だから」、と、自分で自分に言い聞かせているらしい。
 
でも、この”善人”というのが、罠だ。
 
自らその墓穴にハマっている。
 
だから自分を客観視できない。
 
いかに哀れで、みじめか、
 
しかも、お笑いか。
 
自分には見えない。
  
懇願するだけで、自分はなにもしない。
 
恐怖でなにも実行に移せない。
 
ああしたらどうなる、こうしたらこうなる、あーでもない、こーでもないと
 
ノイローゼのように状況をシュミレーションしているだけ。
 
そんなとき、ひとたび、自分を救ってくれそうな人を見つけると、
 
今度は、やたらにごう慢になる。
 
一人では、悪人と太刀打ちできないのに、
 
自分を救ってくれそうな人には、自分のわがままを100%叶えてくれるように懇願し始める。
 
こういのは、性質がわるい。
 
私はあなたの代理人でもないし、利害を共有している訳でもない。
 
ただ、可哀そうだからあなたに代わって話をつけに行くだけだと言っても、
 
だったら、相手にこう言ってくれ、そしてこうなるようにしてくれと
 
今度は、こちらに、自分の要求を100%叶えてくれるように懇願してくる。
 
更に、交渉してダメだったらどうしてくれるのかと逆に盾付いてくる。
 
では、ご自分でお話したらどうですか? と突き放すと、
 
何をされるかわからない、怖い、どうしたらいい、もしなにかされたら、どうしますか。そうならないようにするためには、どう言ったらいいですかと人を頼るだけで、自分で立ち向かおうという勇気がまったくない。
 
自分で言われることをあらかじめこちらが考えてお教えすることはできない。
 
あなたの意志だから、
 
相手がどう出るかもわからないし。
 
じゃあ、どうしたらいいですか?
 
あなたならどうしますか?
 
だから、私が出来るだけ交渉してみましょうと言っているのです。
 
でも、限界はあります。
 
あなたの要望は100%はかなえられませんよ。
 
初めからお断りしておきますが、それは無理です。
 
相手と妥協点を探るのです。
 
それもできるだけ、あなたに有利になるように交渉してみます。
 
でも、相手は相当な相手だということはご存じでしょう?
 
だから、今から、あなたに交渉の結果を保証することはできません。
 
それは御理解いただけますね。
 
私はあなたの代理人でもないし、利害を共有している訳でもない。
 
貴方にお金を貰って雇われている訳でもない。
 
ただ、見るに見かねて、私が話をしてみましょうと言っているのです。
 
お分かりになりますか?
 
もし、私が交渉するのがご不満なら、どうぞご自由に直接ご自分で相手と交渉してください。
 
と、
 
こんなふうに助けてくれと頼まれているその人を、まず説得しなければならないのだ。
 
この理不尽さが分かってもらえるだろうか?
 
こういう”弱者”、自分ではなにもできない”弱者”の話を聞き、
 
弱者を喰い物にして平気でいる”悪人”と話をする訳だが、
 
私にしてみれば、善がよくて悪がわるいというより、どっちもどっちに見えてしまうのだ。
 
こういうお人よしで何もできないくせに自分のことばかり考えている”善人”に
 
ぴったりハマるように、”悪人”がくっついて甘い汁を吸っている。
 
それが自然の掟のような気がする。
 
弱った鹿がいたら、それをライオンがねらう自然界の法則のように。
 
人間社会にも無力な善人を利用する悪人がぴったりと付き添って離れないという関係が生じることがある。
 
こういうのを共依存というのかどうか分からないが、
 
そこに、私のような第三者が、第三の力として加わると、
 
ちょっとしたバトルが起きるのだ。
 
でも、私から見ると、
 
お互いに、自分、自分、自分と自分の利益を主張しているだけの同じ穴の狢だから
 
醜いバトルが起きるのだ。
 
でも、このバトルは避けて通れない。
 
誰かが、この嫌なマイナスのエネルギーの発散を身に引き受けなければ、
 
ねじ曲がった関係というのは真っ直ぐなものには修復されないのだ。
 
そのとき、そのエネルギーを振りかぶるのが私の役割になる。
 
とっとも割が合わない訳だが、そこにいて、捻じれを解消するエネルギーの発散をオブザーブする。
 
お互いがお互いの欠点をあげつらい、利己100%を主張し合って、バトルするところに居て、お互いのマイナスでこじれた今までの捻じれを解消してやれば、これからは、二人のマイナスの関係は解消されることを明示してやる。
 
時には、私が悪者になったり、罵倒されたりしながら、
 
わけのわからないののしり合いの結果、ついに解決すると
 
今度は、自分の自身の手柄だったと両者は思う。
 
そんな低俗な輩の、低俗な紛争の調停のために、
 
”弱者”を説得し、”悪人”と交渉することになるのだ。
 
こうした問題が発生しているところは、
 
たいていは、両者がおかしい、
 
一方は悪だが、その悪が悪をはびこらせるだけのお人よしを見つけ出すのだ。
 
騙されて利用され側は被害者には違いないが、勇気も知恵も実行力もない。
 
だから、それを見透かされて利用され尽くすのだ。
 
そして、悪人と交渉して説得するのがたいへんなように
 
善人と話をして納得してもらうのもまた、とてもたいへんなことなのだ。
 
どちらも同じ穴の狢なのだと思う。