お葬式

 
 
 
今日、亡くなった義理の兄のお館の前で、
お坊さんがお経をあげているのを聴いていて思った。
本来、ブッダは死後のことを”一切”説かなかった。
だから、小乗仏教では、死後も永続する”霊”というものを一切認めない。
仏教の心髄は、すべては生々流転し、無常であるということ。
”永遠の魂”などという”実体”はないのだ。
色即是空、空即是色
それを悟ることこそが解脱であり、涅槃なのだ。
 
それなのに、”霊前供養”などと言って死者の霊を弔う。
死者に語りかける。
 
死後の世界ははたしてあるのだろうか?
 
「かいま見た死後の世界」という本で、初めて臨死体験というものが取り上げられた。
一度、心肺が停止した者が、実は意識があって、死後の世界を見てきたという”体験談”だ。
それによると、死者は、死後、肉体を離れ、自分の死体を見下ろしたり、そこに集う縁者を見ていたりする。
その後、”光のトンネル”に吸い込まれ、”三途の河”を渡り、とても美しい世界に到達する。
そこで”光の存在”に出会い、自らの人生を走馬灯のように回想するという。
 
死者は、無になるのではなく、死後に肉体を離れる。
つまり、死後も永続するなんらかの”実体”がるというのだ。
 
大乗仏教で、このような”死後も永続する実体”が説かれるようになったのは、華厳経、勝曼教で如来蔵思想が説かれて以後のことだ。
 
それ以後、仏教においても、人間は死んでも霊は永続し、死者が葬儀の様子を見ていることも可能となった。
 
つまり、坊さんが死者の前でお経を読み上げることも”不合理”ではなくなったのだ。
 
 
 
そんなことを考えながら、法華経方便本を坊さんが唱えているのを聴いていたのだが、
僕には、そこにいる仏が、すでに霊の抜け出した”物体”としか思えなかった。
 
法華経は生前に即身成仏ができると説く。
逆に言えば、死後は誰でも”涅槃”に行き、成仏するように思われる。
ところが、そう簡単には成仏できないのが人間の”霊”なのだ。
輪廻転生し、また娑婆世界に戻ってくる。
そして、最後に、もう二度と生まれ変わらなくていい境地まで達する。
そのとき初めて仏となる。
仏は、一切は無常だと悟った、何物にもとらわれない境地。
そして、それを悟る主体も無い。
つまり、仏教では仏はアートマンではないのだ。
実体はない。
ところが、如来蔵思想から、仏教とバラモン教とまた再び区別がつかなくなる。
如来は、実体があり、輪廻し、ついにはブラフマン(梵)とアートマン(魂)が一体になる。
 
そうなると、もうこれはブッダの教えではない。
仏教は、ここにきて、葬式仏教になる。
それでいて、死後の実体を平易に説こうともせず、ただ、漢文の音読みのお経を唱えているだけなのだ。
 
たしかに、誰も”死後の世界”のことをきちんと説明できるものはいない。
否、いろいろな”新興宗教”がそれを説いてはいるが、だれもそれを”証明”できる者はいない。
 
それが”証明”されたらきっと、
葬式の在り方も、寺も墓の在り方も、がらりと変わってしまうに違いない。
 
そんなことを考えながら、
死後のことがなにも分からない”現世の人間である自分の智慧のなさ”を歯がゆく感じながら、
火葬場で焼かれて灰になったお骨を拾った。
 
たしかに、人間は、はかなく、無常なものだ。