時間、芸術、野菜

  

昨日は絵を9枚描いた。
 
アクリル絵具で下塗りから初めた。
F4のキャンバスを4枚塗っても絵具が余ったので、さらに楕円形のキャンバスを2枚塗り、まだ絵具が余っていたので段ボール紙3枚に塗ったら、下塗り用に作ったダーク・ブルーの絵具が全部なくなった。
小1時間もすると、下地がもう乾いていたので、最初の構想のとおり、割りばしを削ってペンを作り、墨汁で線画を描いた。
楕円形のキャンバスには女性の顔、段ボール3枚には風景、そしてF4の2枚には男の裸体、2枚には女の裸体。
段ボールの風景には水彩で彩色もした。
 
この頃、時間が経つのがやたらに早い。
たぶん、気分的にそう感じているだけでなく、物理的に時間が以前よりも早く過ぎているのではないか。

そのせいでもないが、連休になった途端、昼夜が逆転してしまった。

本当はこれから立体の人体を作りたい。
でも、勉強もしなければならないし、店が閉まる前にちょっとした買い物にも行かなければならない。

くだらないTVを見ていたから、時間が無くなってしまった。

日曜だとサンデープロジェクトをついつい見てしまうが、いつも後悔する。

たぶん、10年後に見ればわかるだろう。
今日もドバイに日本の農業を売り込みに行く農家をドキュメンタリー風に取り上げていたが、農産物も商品と同じように金がある所に集まるようになってしまったのだと思った。

結局、貨幣経済は世界的にクレジット化して偏在し、持てる者と持てないものの格差が2層化して分裂し、農産物も安い中国産から無農薬有機栽培のブランド作物まで二極化して世界のマーケットに”偏在”し始めたということらしい。

結局、無農薬のブランド野菜を買えるのは一部の金持ち(資本家だけ)に”偏在”してしまう状況がグローバルに拡がりつつあり、世界人口の1割の者が世界の富の4分の3を独占し、1日1ドル以下で生活する者が3憶以上、餓死するものは、中国産の野菜はおろか、泥のクッキーも食べられない状況。

小池百合子がドバイでは今やエコとオーガニックフードがキーワードになっていると言っていたが、もし有機栽培の日本の野菜が世界的に認められて高値で輸出されるようになり、日本の農業が生き残ったとしても、それで国内の食料の安全保障が保たれる訳ではないという気がする。
市場至上主義経済の中にあって、ブランド野菜が商品として世界で流通するようになっても、それを自国の日本人が日々口にできるとは限らない。
安い危険な農産物と一緒に同じスーパーで売られ、国内においても、グローバルな格差がそのまま反映された形で消費者が二極化し、安い物しか買えない貧困層と、無農薬野菜を毎日買える富裕層がでてくるだろう。

自給自足して無農薬の野菜を自宅の農園で作り、それを食して循環型のエネルギー経済を作ろうという本来のエコロジー的発想は、またしても資本と市場経済に取り込まれてしまった。そして、農業までも金をめがけて世界中を駆け巡る”ビジネス”と化してしまった。
そのことにも気付かずに、このような番組を日曜日に見ているのだとしたら、それこそ10年後同じ番組を見たとき、これは市場主義経済社会万能主義者達の”思想的洗脳”だったと気づいたとしても、もう遅いのかもしれない。
なぜならその頃には、富の偏在は既に人間社会を取り返しのつかないまでにカオスと化してしまているだろうから。