詩の格闘技

 昨日の夜、NHKの「詩のボクシング~燃えろ!声と言葉の格闘技」を見た。
 とても面白かった。
 見なかった人のために、NHKの解説そのままを載せると「四角いリングの上で二人の朗読ボクサーが交互に自作の詩を朗読し、どちらの言葉が観客の心により深く届いたかを、あえて勝敗をつけて決めるという前代未聞の言葉の格闘技。」ということだ。
 優勝したのは、林木林(確か“はやしきりん”だったと思う。間違えていたらごめんなさい)という女性だった。たしかに、すごい“詩人”だと思う。
 独自のユーモア、パロディー、言葉遊びで、観客に一番受けていた。

 “言葉の力”による格闘技という発想は、とてもすばらしいと思う。
 しかし、見ていて気づいたのは、詩らしい詩を語るとクサく感じること、多少のユーモアやパロディーを含んだ奇妙なパフォーマンスが受けることである。
 それは、日本のお家芸なのだろうか?
 現在の日本を代表するカルチャーといえば、たぶん“お笑い”ということになるのだろう。
 ビートたけしが日本を代表する現代アーティストの筆頭に上げられる現状なのではないか?
 一人が大衆受けすると、誰も彼もがその人に仕事を依頼し、マスコミは同じことを繰り返し流し、大衆は洗脳される。やがて、その人は一つの“権威”となり、いつの間にか“権力”を持った独裁者となる。
 しかし、アートの世界で、たった一人の“権威”など必要ない。マスコミの洗脳的繰り返しとも無縁のはずだ。

 「詩のボクシング」を見ていて、“言葉の力”というものを再認識したのは確かだ。
 しかし、だんだんとポピュラーになるにつれ、それは、“詩”ではなく、“お笑い”や“コント”やナンセンスなパフォーマンスに変質し、観客に受けを狙ったエンターテイメントなっていくのではないかと、一抹の危惧を覚えた。

 エンターテイメントが悪いとは思わない。しかし、誰も彼も、猫も杓子も、という価値観の大衆化、平板化、無批判化が、僕には気持ち悪く、おぞましく感じるだけだ。



「水族館」


 ゆらゆら ゆらゆら
 ゆらゆら ゆらゆら

 ゆれている

 ゆらゆら ゆらゆら

 燃えている

 木が燃えている

 山火事に逃げ惑う小鳥たち

 ガラスに囲まれて

 大洋の夢を見ながら

 オーシャンから分離された

 隔離部屋の中で

 大衆に見つめられ

 ゆらゆら ゆらゆら

 燃える炎の中を

 ゆらゆら ゆらゆら

 回りながら

 出口を求めて

 口から炎を吐き出し

 止まり木さえなく

 そこに

 自然などないのに

 あたかも

 見世物のように

 燃える水の中

 魚が泳ぐ

 銀のうろこ

 なまめかしく

 けっして網の上で焼かれること無く

 燃える水の中

 サンマが回る

 イワシが回る

 マグロが回る

 タチウオが光る


 無垢な目玉が漂っている


 ・・・・・