60年前の”前衛”と今の”アーティスト”

 
休みは実質日曜日しかないが、日曜日は認知の母に昼ご飯を食べさせて(車で近くのファミレスか蕎麦屋に行く)、その後、哲学堂に行って散歩させる(認知症だから、極力ひとりで外に出ないようにヘルパーさんやデイサービスのスケジュールを組んでいる。でも歩かないと脚腰が弱ってしまうので、日曜日には必ず散歩をさせるようにしている)。だから、ほとんど自分の時間はないのだが、最近、土方巽のDVDと本を買ったので、自分の時間ができたときにはそれを見たり読んだりしている。本は清水正著の『土方巽を読む』という本だが、とっても面白い。その中に1968年に公演した『肉体の叛乱』の写真が多数掲載されている。この映像がすごい。その映像を動画で見たいのだが、僕が買ったDVDは1973年に京都大学で行った講演『夏の嵐』の映像だ。もちろんこの舞踏も面白いのだが、これを最後に土方巽は自ら踊ることはしなくなったそうだ。最近アマゾンで買ったのは、『肉体の叛乱』の映像が12分間だけ記録されたCDROM付きの慶応大学出版会の『土方巽の舞踏(肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー』という本だ。まだ映像は見ていない。それにしてもこの本を見ると、三島由紀夫土方巽の論評を書いたりしている文章が載っていたりしてとても面白い。(ちなみに僕は三島がノーベル文学賞をとるべきだったと思っている。)三島は伝統芸術が好みだが土方巽の前衛芸術に強く惹かれると絶賛している。その他にも、滝口修三や渋澤龍彦、種村孝弘などの記録と伴に「土方巽の活動の鮮烈な全体像が甦る。」とオビに書かれているとおり、土方巽を巡るさまざまな写真や文章が記録されている。それを見るとただただ圧倒される。芸術の統合。音楽、美術、文学、舞踏。それぞれが土方巽の舞台に統合されている。文学を抜きにした”純粋絵画”の探究とは違う。演劇や歌詞と独立した”抽象的純粋音楽”とも違う。この時代でなければできなかった総合芸術としてのアヴァンギャルド・アートの壮大な盛り上がりを目にして、スゴイと思った。
僕も90年代にD.E.Sに参加して、何度かゲリラ的イベントを六本木界隈でやったが、そのときはNY帰りのAKIRAの人脈もあり、様々な人たちがジャンルを超えて集まってイベントをやった。大駱駝艦などの暗黒舞踏、その他の個人的舞踏(?)、ロックバンド、その他の弾き語り、即興ノイズ演奏、ポエトリーリーディング、もちろん絵画も写真も彫刻も、インスタレーションも映像も展示されていたし、耳かき屋とか、紙芝居、アクセサリー売りなど、混沌としたイベントだった。ところが、60年代の土方巽やその周辺の行ったことに比べると、まだまだ徹底さが足りなかったと思った。そして同時に、同じようなことをやろうとする人たちはいつの時代もいるんだなとも思った。60年代と90年代。30年の時間の経過があるが、90年代もそれなりに盛りあがった。もちろんマスコミだのメジャーな美術雑誌などにはまったく採り上げられなかったし、渋澤龍彦みたいな”高名な”評論家が論評したわけでもないが。
90年代は、オウム事件があり、阪神大震災があった頃だ。
文化というのは、揺り戻す。
60年代のアヴァンギャルドパフォーマー団塊の世代で、今はもう相当な爺さんになってしまっている。
90年代のアヴァンギャルドは誰の耳目にも触れることなく、今はもう老いぼれかかっている。
最近、アラウンド50近辺で死んだ人たちに興味を惹かれる。
世界的最高峰の詩人、パウル・ツェランは、50歳でセーヌ川に身を投げて死んだ。三島由紀夫は45歳で市ヶ谷の自衛隊駐屯地で無様な姿を演劇的に晒して死んだ。
それから、加藤和彦は、62歳で首を吊って死んだ。
最近、加藤和彦のロングインタヴューを活字化した『エゴ』という本が出たので買って読んでいる。1972年に神田共立講堂で行われたコンサートの音が初収録されたCD付きだ。
 
そんなんで、最近、一昔前の”団塊の世代”のアートの状況を眺めている。僕が子供の頃育ったのは、そういう人たちの作った音楽や文化の中でだったのだから。
 
そして、みんな老いぼれていくのを眺めている。そして、新しいアートは日本で生まれてきているのかいないのか、なにか目を惹くような”前衛”はあるのか、アンテナを張っているつもりだが、ネット時代になって情報は氾濫しているが、これといったアーティストに未だにお目にかかれないでいる。ビジネスマン子飼いのアーティストは、今は音楽業界にはたくさんいて、最近は”歌手”を”アーティスト”と言うらしいが、あとは、アニメとか初音ミクとか、ホラーものとか?
アメリカにはテイラー・スイフトがいて、大ファンだが・・。