法則を無視する

半年飼っていたヤモリのトゲが死んだ。
今日は、仕事を休んだ。
夢で、空を飛んでいた。
随分と高い上空を飛んでいて、怖かった。
風に流されて、東へ東へ、海のような、半島のような
このまま流されていったら、太平洋だの、何とか洋だのの上空に来てしまい、
そこに落下したら孤立無援で漂流だと思いながら、必死で風に流されまいとしている。
どんどん落下していく。
随分時間がかかる。
気持ちがいい。
笑っている。
この開放感。
落下していく快感。
これを僕は何よりも欲していたんだ。
それを体験してるんだから、もっと飛んでいたかった。
だんだん地面が近づいてきて、どうやったら怪我しないで着地できるか悩んでいた。
でも、あっさりと簡単に着地した。
上空2mで、ほとんど、止まった。
そして、重力を感じることなく、ふわっと着地した。
いや、着水した。
ジャングルに囲まれた川の中だった。
ジャングルと言っても熱くはない。
日本の高原風の林の中の小川。
50cmくらいの深さの水に、浸かっていた。
気づくと何故か全裸だった。
このまま町まで歩いて行くには気が引けた。
でも、何故か上流に向かって川の中を歩き始めた。
 
ところで、フーコーの「言葉と物」のレポートを書かなければならない。
イメージはもう出来上がっている。
フーコーは緻密だ。
だから、こっちも緻密に考えなければならない。
考えるのが面倒くさい。
でも、だいたい構想はできている。
「侍女たち」を書こうと思う。
かの有名なベラスケスの「侍女たち」をフーコーが語っている。
その章を選んで、レポートを書く。
あとは、構想したものを文字にするだけなのだが、それが、面倒だ。
 
フーコーの言うとおり、言葉は、継起的だから、いちいち初めから最後まで書かなければならないのが、面倒なのだ。
だから、と言うわけでもないが、
思いついた。
「今度、僕は、絵を、言葉のように描こうと。」
リアルタイムで考えたことを空間的一瞥で、同時的に表現するのだ。
 
この発想は、特許物だ。 と、自分では思っている。
たぶん、それができるのは、僕だけだ。
そう。
実証的に、それができるのは、主観である”私”だけなのだ。
 
ところが、絵を描くにしても、準備がいる。
画材をそろえ、かく画面を用意し、絵の具と筆を選び・・・
結局、完成するまでに時間がかかる。
完成した絵そのものは、隠匿性がなく、一瞥で表象されるが、
それを描くには、またしても、やはり、継起的時間を必要とする。
それが面倒くさい。
 
一瞬にして出来上がる方法はないものか。
上空を飛んでいるとき、
僕は、最初にジャンプした。
闇の淵に向かって、決死のダイビングをした。
その一瞬で、”落下”が始まった。
そして、着地。
落下しているとき、
僕の意志、思考、恣意は働く余地がない。
まったく、僕自身を必要としていないのだ。
だから、楽しい。
快感なのだ。
 
たぶん、地面に叩きつけられて、僕の自我意識も消滅するはず。
しかし、身体は、重力の法則を無視して、
上空2mで静止し、
着水する。
 
夢は、自我意識なしに展開するストーリーであり、世間の法則も規則も、
物理学の法則も、全ての法則も規則も制度も無視している。
だから、爽快なのだ。
 
この世に生きている限り、
「順序」という鎖にがんじがらめ。
言葉そのものも、順序だし、
行為そのものも、順序を無視できない。
朝がくれば夜が来る。
生があれば、死がくる。
 
そんな「順序」を無視して、
混沌としたオーダーで、
そのとき、そのとき、
思いついたことができれば最高なのに、
と思ったりする。